2017.10.12
読み物

托鉢・お布施から見る仏教の心

サバイディー(ラオス語でこんにちは)
ラオス事務所の半田です。

先日、朝早起きをしてルアンパバーン市内に行きました。
その目的は、

托鉢。
托鉢③

托鉢とは、僧侶が鉢(お椀のようなもの)を手に持って外を回り、
お金や食料などをいただく行為のことです。
ルアンパバーンでは朝の日が昇る頃になると、僧侶たちが街を練り歩き
人々からお布施(捧げもの)をいただいております。

今日は、托鉢とお布施という行為の中にどのような仏教的な考え方が反映されているのか
少し見ていきたいと思います。

まず、僧侶たちはどうして托鉢を行うのか。

こちらによると托鉢の目的は、
1.僧侶たちが食欲に支配されず、好きなものが食べられない苦しみから離れること
2.在家者に命を支えられていることを実感する。

僧侶たちが、欲を捨て、在家者への感謝の気持ちを持つ修行の一環のようですね。

しかし、この托鉢に捧げものをする在家者からすると、
お捧物をすることにより徳を積み幸せになるというのです。

ラオスのお寺の様子。出安居日の前に撮影したために装飾が施されている

ラオスのお寺の様子。出安居日の前に撮影したために装飾が施されている

こんな釈迦のエピソードがあります。

ある日、釈迦は弟子二人を連れて托鉢に出かけました。
その際に右か左の道かを選ばなければなりませんでした。

釈迦は迷うことなく右の道を選んだ際に、弟子は尋ねました。

「右の道は、貧しい村に通じています。右の道を選んでも私たちにお布施をする人は多くいるとは思えません。むしろ、左の道は大商人や大地主の住む村に通じています。そちらに行った方が良いのではないでしょうか。」

すると、釈迦は答えました。
「私は道を間違えてはいません。この道が、貧しい村に続いていることは知っています。
(中略)
貧しい中から、米一粒でも布施をして、功徳を積むならば、それにより、彼らは今の苦しい状態から抜け出せます。長者の万灯よりも貧者の一灯、布施の尊さは量によって定められるものではありません。貧しさに苦しんでいる人ほど、布施をしなければなりません。」

貧しい人たちは、米粒一つでもお布施として差出します。その善い行いの結果、善いことがその人たちに帰ってくるというのです。

笑顔で捧げものをする女性の姿が印象的です。

笑顔で捧げものをする女性の姿が印象的です。

僧侶の視点と在家者の視点をかけあわせると、互いに恵みを分け与えているという
ようにも感じられます。
ラオスの人々は、とても優しい方々が多く、困ったことがあると助けてくれる人が多く、
いつも面倒を見てくれます。
もしかしたら、優しさを分け合うことで互いに幸せを分かち合っているのかもしれません。
私は、ラオスの方々に対してできることはほとんどありませんが、
求められていることや、アシストできることがあれば精一杯して、
恵みの共有をしていきたいです。

参考
布施とは何か、仏教の教え