2023.01.17
メッセージ

震災から28年 「最後の一人まで」 ひまわりの会の集い~桂光子さんを偲んで~

メッセージ


在りし日の桂光子さん

地球市民事業課の市川です。

去る1月14日、「ひまわりの会26年目の集い~桂光子さんを偲んで~」に参加するために、神戸市長田区へ訪問しました。阪神・淡路大震災の1年半後、1996年9月にスタートした「識字教室 ひまわりの会」は、昨年で26年を迎えました。しかし、ひまわりの会の創立からずっとその大きな支柱であった桂光子さんが、一昨年5月、志半ばで急逝。それをきっかけとして、これまでの関係者が一堂に集い、桂さんを偲びながら、ひまわりの会を振り返り今後の展望を考える会として開催されました。
当会シャンティは、阪神・淡路大震災で緊急人道支援活動を展開し、そこで多くの高齢の非識字者との出会いの中で、識字の重要性を痛感し、ひまわりの会の立ち上げをサポートさせていただきました。私は、当時の責任者として関わった経緯から今回参加させていただきました。詳しくは、『震災から27年 識字学級「ひまわりの会」の思い出、桂光子さんを偲ぶ』をご参照ください。

当日の会場の様子

当日は、60人ほどが参加。学習者の半数は在日韓国・朝鮮人の高齢のオモニの皆さん、ボランティアスタッフの方は学生も多く、大学の先生、社会人等様々です。そして、私たちのような立ち上げから今までに関わった皆さんが参加。桂さんの思い出を中心に、ひまわりの会、自分と識字のことなど、一人一人が思いを語りました。時折、聞くも涙、話すも涙でしたが、とても暖かい雰囲気の中で、ゆったりとした時間を共有しました。

学習者の皆さんから様々なエピソードが語られました

学習者の皆さんからは、「桂さんは、お母さんのような、姉のような存在でした」「もっと長生きしてほしかった」「親以上に優しい人だった」「イベントで遠足や花見に行き、桂さんは良く踊ってました」「目線を合わせて、いつも笑顔で教えてくれた」と、桂さんのお人柄を感じるエピソードが次から次へと語られました。その中で、学習者の皆さんは、自分の生い立ちを語られる方もいらっしゃいました。「戦争中、先に来日した夫を追って日本へ。疎開先で勉強もできなかった」「西野分校(夜間中学校)に、もっと在籍して勉強したかった」「台湾へ3歳で連れていかれて40年間経過してから日本に戻ってきたけど、日本語が全然わからない」など、歴史に翻弄されながら文字を学ぶ機会を失い、高齢になるまで、その機会がなく、非常に苦労されたことがひしひしと伝わってきました。また、学習者は高齢でもあり、体調不良で来れないこともたびたびあり、そんな時には、桂さんが家庭訪問されていたと伺いました。

ひまわりの会の代表の洪浩秀(ホンホス)さん

また、ボランティアスタッフの皆さんからは、桂さんから伝えられた言葉として、「ひまわりの会のドアをあけるということは、どれだけ大変なことなのか、文字を最初から学ぶことはどれだけ不安なのか?そんな思いをしょってきている学習者の皆さんの気持ちを大切に受け止めてください」「識字とは何なのか、なぜ必要なのか、文字を学ぶことの意味を教えていただきました。その中で、一番大切にされていたのが、ボランティアと学習者との関係性です。「常に同じ目線で」ということを教えていただきました」と、桂さんが、識字について大切されていたことを語りました。しかし、「このひまわりの会で、学習者と一緒に時間を過ごすことが楽しくてしょうがない」が口癖だっただことも紹介され、本当にひまわりの会を大切にされていたと思います。

皆さんが思いを綴った桂光子さん追悼集

最後に、ひまわりの会の代表の洪浩秀(ホンホス)さんより、今後の決意表明として、生前の桂さんが話された話のご紹介がありました。
「ひまわりの会を始めた時、とにかく最後の一人まで、火は消せないと思ったの。学習者が最後の一人になるまで、私は続ける決心をした。続け方や教材が違った方向になってくるかもしれないけど、自分が火をつけておいてね、学習者が楽しいな、嬉しいなという時に、こっちの都合で、しんどいからもう辞めますと言うんだったら、初めから火をつけない方が良いと思う。その時、学習者やスタッフが何人おるかわからないけれども、触れ合うことが喜びである限りは、人数の問題ではないと思うし、学習者、寄附してくれる人など、いろいろな人がいて、いろんな形でささえられているからね。周りの人が薪をいっぱいくめてもらっているから、火が燃え続けられるの」。

ひまわりの会スタート時の看板

これからもひまわりの会のご発展を心からお祈りします。

地球市民事業課 市川 斉(元神戸事務所長)