難民子ども文化祭に参加して
2009年、約7年間のアフガニスタン業務を終えた後、ミャンマー(ビルマ)難民事業事務所にアドバイザーとして着任をしました。1年間という期間限定の業務は、資金難に直面している難民キャンプでの事業の見直しと新規事業の立案というものでした。

photo by Yoshifumi Kawabata
シャンティが2000年から開始した難民キャンプでの事業は、10年が経過してもなお、解決の糸口が見いだせず、短期的な支援から中長期的な支援が必要とされていました。他方、難民キャンプを取り巻く環境は厳しく、経済活動、恒久的な建物の建設、外への移動、外部者の難民キャンプ訪問や活動などは、多少の緩和は見られたものの、タイ政府の公式発表上は厳格な制限が課せられていました。
支援のための資金は、緊急支援から中長期的な支援へと移行しつつも、通常の開発協力を主とした資金は恒常的支援は認められず、どの分野においても3~5年間の中で活動を移管し、持続性が担保されるという条件になっており、制限下で存在する難民キャンプにおいて、住民が自立的に活動をする資金を確保することは到底無理な話でした。
このような状況で、米国を中心に第3国に移住する定住プログラムが開始されていました。日本もちょうどこのころ、日本への受け入れを表明し、第3国定住支援を決定しました。第3国定住が開始されると支援活動に主力的に関わってきた住民は、有力候補として選出され、難民キャンプを去って行きました。国際支援団体の活動に携わっていた、能力の高い住民ほど、定住元国からの期待も高く、シャンティが運営する図書館員も次々と第3国への定住が決まっていきました。図書館員としての研修を経て、ようやく1人前になったところでいなくなってしまう状況が続き、新しい人が着任すれば同じ研修を何度も繰り返さないといけません。こういった状況はなかなか理解を得られませんでした。

photo by Yoshifumi Kawabata
難民キャンプ内では第3国定住プログラムを機に、新しい生活の先行きが見えている人、いつまでたっても難民キャンプの住民としてすら正式登録できない人たちの中で、殺伐とした雰囲気が漂っていました。衣食住は与えられても未来が全く見えない、そんな大人たちの不安が子どもにも広がっているようでした。
こうした課題に直面した私たちは、難民キャンプで実施してきた活動の見直しを協議していました。これまで建設した図書館の中で、伝統文化活動として民族舞踊を実施してきましたが、キャンプ内にいるほかの民族の子どもたちは参加していません。特に少数派の民族の住民は、キャンプの中心部から遠く離れた山岳部に近いところに住んでいて、キャンプ内のさまざまな社会サービスにもアクセスしにくい状況がありました。また、密集しているキャンプにおいても区画ごとにコミュニティが形成され、区画を超えて交流をするといったことが頻繁に行われていないコミュニティもありました。同じ境遇、同じ国の住民同士でもキャンプ内での交流はないという状態でした。
しかし、ミャンマーの長い紛争の歴史を振り返れば、キャンプ内でこそ異なる民族同士が交流をし、子どもたちの中に平和な心を醸成していくことが重要ではないかと話し合われたのです。

photo by Yoshifumi Kawabata
長い紛争の歴史、先の見えない生活、政治的解決が期待できず中長期的な支援も常に資金難に見舞われており、第3国定住の切符を得られるのは限られた住民のみ。一見穏やかに見える難民キャンプ内において、人々は絶望との闘いの日々でした。
ある時、若者の一人と話をしていた時です。「難民キャンプの解決策は何だと思いますか。私は戦うことだと思います。今の難民キャンプでの生活では死んだも同然、それであれば自由を求めて戦うことに命を懸けたい、そう思っています」というのです。まだ16、17歳くらいの本来であれば無限の将来に夢を抱ける年齢です。人は衣食住だけでは生きていけない、心の安寧と未来への希望が必要だというシャンティの先達の言葉を思い出しました。
「難民キャンプで文化祭をやろう」

photo by Yoshifumi Kawabata
2009年に当時の所長の声かけで始まったのが、難民キャンプでの文化祭でした。「難民子ども文化祭」と名付け、開催を可能にするためにさまざまなところに掛け合いました。ほかの難民キャンプの子どもたちの参加許可を取得し、日中は暑いので夕方の開催許可をとる。どれも初めての取り組みでした。(当時も今もNGOの活動も夕方までと決められており、夜間キャンプ内に留まることは許されていません。)
各難民キャンプでの図書館活動を通して、住民との強いつながりや難民キャンプを管轄するタイ政府との良好な関係がなければ、これらの許可を取得することは無理だったでしょう。

photo by Yoshifumi Kawabata
シャンティでは、姉妹団体のシーカー・アジア財団から始まった文化祭を長年複数国の子どもたちを招いて開催してきた経緯があります。故八木澤氏が常に語っていた目標は、参加した全員が最後は感動できるようなステージにすることでした。しかし、この感動するステージを経験したことがない職員にとっては、フィナーレをどう飾るかは難題でした。何度も協議を重ね、フィナーレはどの民族にも偏らない曲を選曲し、平和を願って“We are the world”をビルマ語で歌うこと、そして、文化祭や図書館に継続支援をしてもらっている日本の方々ともつながれる曲として選んだのは「未来へ」でした。最初に「未来へ」の歌詞を海外職員に伝えた時に、涙を浮かべる人もいました。未来が絶たれた難民キャンプで「未来へ」を歌う、未来をあきらめてほしくないという思いを込めての選曲でした。子どもたちに向けて職員が歌うということから始まりましたが、2025年11月、久しぶりに開催された難民子ども文化祭で、子どもたちがこの歌を元気に合唱しているのを見て、胸がいっぱいになりました。

photo by Yoshifumi Kawabata
今年7月、年内をもって難民キャンプの食料の配給が資金難により終了することが告げられました。ある住民はリスクを負って外に働きに出ると出て行ったまま、行方不明になっています。夫が帰って来ぬまま、幼子を抱えた妻は途方に暮れています。
平和をテーマに数年ぶりに開催された難民子ども文化祭。私たちは、今なお解決に至っていない難民キャンプで生きる子どもたちに未来への希望を持ち続けられるようにできることはまだまだあるように思います。命からがら難民キャンプにたどり着き、新しい命が宿り、育っていく。その子どもたちが、「戦うしかない」という思いに至ることがないように、衣食住だけでない、心が通う支援をしていくことが、平和な社会の実現には欠かせません。
一人でも多くの子どもたちの未来が切り拓いていきますように願うばかりです。
事務局長
山本英里

”2025年の難民子ども文化祭に参加した山本事務局長” photo by Yoshifumi Kawabata



