【対談講演】「〈大衆教化の接点〉を考える」その①
昨年11月29日、大本山總持寺で実施された「全国曹洞宗青年会創立50周年記念事業」において、東京大学名誉教授の島薗進氏とシャンティ専門アドバイザーの大菅俊幸氏による対談講演「〈大衆教化の接点〉を考える」が開催されました。
シャンティの創設者である有馬実成師は、全国曹洞宗青年会(以下、全曹青)草創期の中心メンバーとして活躍した方でもあります。そこで、創立50周年のこの時、全曹青、シャンティ双方にゆかりの深い有馬実成師の足跡を辿ることを通して、一緒に原点を振り返り、未来のヴィジョンを考える機会になればと、全曹青とシャンティの共催で実施することになりました。
全国曹洞宗青年会ホームページより
第一部、大菅俊幸氏の講演「有馬実成師と大衆教化」。第二部、島薗進氏の講演「曹洞宗の大衆教化について」。そして第三部に、両者の対談「大衆教化の接点を考える」が行われました。歴史的視野から全曹青、シャンティの意義を再認識する貴重な機会になったと考えます。
第一部・講演「有馬実成師と大衆教化」大菅俊幸氏
全国曹洞宗青年会ホームページより
はじめに
皆さんこんにちは。シャンティ国際ボランティア会の大菅俊幸と申します。よろしくお願いいたします。この度は、全国曹洞宗青年会様、創立50周年、誠におめでとうございます。このような晴れがましい場でこうしてお話できること、大変光栄に存じます。
さて、私どもシャンティの創設者は有馬実成という方で、山口県周南市の曹洞宗僧侶だった方ですが、若かりし頃は、全曹青草創期の中心メンバーでもありました。ということは、有馬という人は、全曹青とシャンティの接点になっている存在なんですね。いや、接点というより、全曹青当時の有馬さんのさまざまな探究や体験がなければ、その後、シャンティは生まれていなかったのではないかと、そう思うぐらいです。
なぜ、それほどまで思うのかと言えば、今から20年ほど前のことです。有馬さん亡き後、その生涯の足跡を評伝としてまとめようと思い、さまざまに調べたり、ゆかりの人にお会いしてお話を伺ったことがあるのです。そのことを通して、次第にその思いが強くなっていきました。つまり、全曹青の時代に有馬さんが思い描いていたヴィジョンが、その後、シャンティとして花開いたのではないかということです。
著書『泥の菩薩』を紹介する大菅氏
そんな発見も含めて、2006年、有馬さんの生涯をまとめて、拙著『泥の菩薩』として発刊することができたのですが、この9月、その後発見した事実なども盛り込んで、新たに増補新版『泥の菩薩』として刊行することができました。考えてみれば、ちょうど全曹青創立50周年にあたるわけで、記念すべきこの時に全曹青の皆さまとご一緒に何かできないかと考えたのです。そして、私たちの接点である有馬実成という先達の思想と行動をしっかり振り返ることで、全曹青の皆さまとシャンティの原点、そして未来を共に考える素晴らしい機会にできるのではないか。そう考えて、本日、共催という形で、このような場を持たせていただく運びになったわけです。
まず私から、「有馬実成師と大衆教化」というお話をさせていただきます。
一.有馬実成師の軌跡
1936(昭和11)年 山口県徳山市(現・周南市)に生まれる
1972(昭和47)年 地元で「禅の文化をきく会」
1975(昭和50)年 在日朝鮮・韓国人の遺骨返還運動
1975(昭和50)年 「全国曹洞宗青年会」設立のメンバー
1979(昭和54)年 「インドシナ難民キャンプ調査団」の一員として現地へ
1980(昭和55)年 「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」の中心として活動
1981(昭和56)年 「曹洞宗ボランティア会」発足
1999(平成11)年 「社団法人シャンティ国際ボランティア会」として新たに発足
2000(平成12)年 遷化
この有馬実成さんがどういう人だったのか、ご存知ない方もいらっしゃると思いますので、簡単ではありますが、まずプロフィールからご紹介したいと思います。
今お話ししたように、有馬さんは、1936(昭和11)年、山口県徳山市(現周南市)に生まれ、曹洞宗原江寺の先代住職です。そして、シャンティの創設者であり、国際協力NGOネットワーク(JANIC)という団体の理事長でもありました。この団体は、日本のNGO活動を推進し活発にしていくために結成されたネットワークです。ということで、有馬さんは日本のNGO界のリーダーでもあったということですね。私も5年間、行動を共にさせていただきました。
民衆と共に歩む宗教者へ
では、有馬さんがどういう軌跡を辿ったのか、その生涯についてお話しします。徳山市に生まれ、幼い頃から、正義感の強い人だったようですが、駒澤大学に入学し、道憲寮に入ります。そこでの学友たちとの切磋琢磨が大きかったようです。有馬さんの仏教観の根幹がそこで培われたのだと思います。そして、いよいよ卒業。意気揚々と自坊に戻ったのですが、そこからが大変でした。お師匠様が戦死された後、東堂様が間を繋いでおられたのですが「お寺は、役員さんはおろか檀家さんが寄りつかないような白蟻の巣窟になっていた」と、当時の『曹洞宗報』に書いています。お寺の経営の実態というものを知って愕然としたようです。それで、何とか檀家さんがお寺に来るようになれば、という一心で「寺報」を作ったりして、せっせと檀家さん回りをしたようですが、その努力が実ってお寺の運営も軌道に乗ってきた、その頃です。活動家としての本性が疼いてきたのでしょうか。1972年、「禅の文化をきく会」というものを立ち上げることになりました。
大菅氏
当時、高田好胤さん(1924-1998)という方がおられました。薬師寺の管長さんで、テレビにもよく出演されて、とても人気のあるお坊さんでした。その高田さんが全国的に写経運動を展開していたのです。有馬さんは、きっと、そんな高田さんに憧れていたと思います。「我々も写経運動をやろう」と、そう思って高田さんを徳山市に呼んで講演会を行ったのです。地方の町に果たしてどれだけ人が来るかと思っていたようですが、蓋を開けてみると、なんと、会場は立錐の余地もないほどだったそうです。そこで「これはいける」と思って、僧侶仲間と一緒に立ち上げたのが「禅の文化をきく会」でした。いろいろな知識人、文化人を地元に呼んで、二ヵ月に一回、お話を聞く会です。今で言うカルチャーセンターの先駆けのような活動と言っていいでしょうか。
ただ、そのうち「ただ勉強しているだけではダメだ」と思うようになっていきました。ちょうどその頃です。在日韓国人の友人がお寺に来られた時、お寺の中に韓国人の方のお骨がそのまま置いてあるのを見て「方丈さん、朝鮮半島には、生まれた土地に埋葬されないと、その魂は安らがないっていう信仰があるんだ。だから、ぜひこのお骨をふるさとに返してやってほしい」。そう言われたそうです。「やはりそういうことか」と思って、早速、在日朝鮮・韓国人の遺骨返還の運動を始めたのです。その後、韓国にも足を運んだのですが、その時、かつて日本人が朝鮮半島の人たちにどれだけひどいことをしたのか。今も、韓国の人々の心に深い傷跡が残っていることを知って強いショックを受けたんですね。そのあたりから有馬さんにとって、この在日朝鮮・韓国人のことはライフワークの一つになっていったと思います。
話は変わって、その後1975年、全国曹洞宗青年会が設立となるわけです。自ら手を挙げて参加したのが有馬さんでした。詳しくは後ほどお話します。
難民支援から国際NGOへ
さて、そうこうしているうちに1979年、インドシナ難民が多数発生して、連日のようにテレビなどで報道されるようになりました。そこで「曹洞宗は、ただ座視していてはいけないだろう」と、タイにあったカンボジア難民キャンプに調査団を派遣することになったのです。その20名の一人として加わったのが有馬さんでした。そして調査の結果、現地があまりに悲惨な状況であることを知り、曹洞宗は難民支援に取り組む決断をしました。こうして、1980年1月、曹洞宗として初めての海外プロジェクト「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」の発足となったのです。有馬さんは、そのJSRCの中心メンバーというより、むしろ先導的な役割を果たしていたと思います。
タイの子どもたちと有馬実成師(1988年)
こうして始まった難民支援でしたが、ほぼ一年後の頃です。「何も問題が起きないうちにやめたほうがいいだろう」。このように曹洞宗当局の判断で撤退が決まってしまいました。その話が持ち上がった時、憤懣やるかたなかったのが、有馬さんでした。「ここでやめられるわけがない。ここでやめたら、日本人の信頼を失います。われわれは難民のために活動しているのであって、宗門のために活動しているのではありません」。こう食い下がって、なんとか活動が終わらないように、知恵をつくして繋ごうとしました。そして、「宗門がやらないなら、我々がやるしかない」と、1981年12月10日、JSRCの活動を引き継ぎ、有馬さんたち有志で、「曹洞宗ボランティア会」を発足させたのです。そこには在家の人も加わっていました。
それは、やがて「曹洞宗国際ボランティア会」となり、1999年「社団法人シャンティ国際ボランティア会」として新たに発足し、現在まで続いているわけです。「持続可能な活動にするためには、任意団体のままではダメなんだ。なんとか法人化しなければ」というのが口癖でした。晩年は、そのことに執念を燃やしていましたね。ただ、社団法人となるためには、宗教団体の名前を冠することはできないため、曹洞宗という名称を外さざるを得ませんでした。それによって宗侶の皆様の気持ちが離れることを心配して、自らニュースレターを作って、全国の宗侶の皆様に、法人化する意義について発信し続けていました。
そして1999年、晴れて法人化を成し遂げ、それを見届けて安心したかのように、翌年2000年に遷化したのです。64歳でした。山口と東京を往復して励んだ20年間。自ら望んだこととはいえ、かなりハードだったはずです。それが寿命を縮めてしまったかもしれません。でも、他人の二倍も三倍も生きた人生。むしろ、燃焼しきって幸せだったのではないかと私は思っています。(つづく)
広報・リレーションズ課 日比