2024.09.09
お寺の取り組み

【対談講演】「〈大衆教化の接点〉を考える」その③

協働事例
講演会報告

昨年11月29日、大本山總持寺で実施された「全国曹洞宗青年会創立50周年記念事業」対談講演「〈大衆教化の接点を〉を考える」の内容をお伝えしています。
今回は、第一部のシャンティ専門アドバイザー・大菅俊幸氏の講演「有馬実成師と大衆教化」の完結編です。

第一部・講演「有馬実成師と大衆教化」大菅俊幸氏

三.三つの有馬像

(2)文化の担い手

有馬実成はどんな人だったのか。三つの有馬像のうち、まずは「弱もんの味方」という一面についてお話しましたが、次に二つ目としてあげたいのは、「文化の担い手」であったということです。有馬さんは「文化」を非常に大切に考えている人でした。仏教美術をはじめとして、幅広い関心と知識がありましたが、落語などの大衆芸能も大好きでした。シャンティの事務所が新宿区にあるので、時々、仕事の合間を縫って新宿末廣亭に通っていたようです。でも、なんといっても、お茶、茶道への思い入れには並々ならぬものがありました。

オリエント茶会――文化を大切にした活動

その思い入れは全国曹洞宗青年会(以下、全曹青)の時代に大いに発揮されることになります。当時のニュースレター「曹青通信」を見るとその様子がよくわかります。全曹青発足当時、その目玉事業として「シルクロードにむすぶ茶と禅のつどい」という趣旨で、「オリエント茶会」という催しが盛大に行われました。その仕掛け人と言いますか、プロデュースを担当したのが、有馬さんと、先ほど紹介した美術史学者の杉山二郎先生の二人でした。

お茶の文化が、シルクロードを通ってどのように日本に伝わって来たのか。そして禅とどうつながっているのか。それを「お茶会」を通して少しでも体感しようというねらいだったようです。このアイディアは、メソポタミア文明の専門家でもあった杉山先生のお知恵によるところが大きく「せっかくの機会だからこれを使ってはどうか」と、所蔵されている貴重なペルシャ茶碗を快く貸してくださったそうです。ペルシャ茶碗を用いての「オリエント茶会」は前代未聞ですね。何とも奇抜でユニークな企画です。それだけに一部には戸惑いを感じた向きもあったようですが、有馬さんの熱意はそれを上回っていたのでしょうね。自坊で、事前に一度シミュレーションをして臨んだようです。それほどまでに文化を大切にした活動を展開しようという思いが強かったのだと思います。そして、その思いに呼応して取り組んだ当時の全曹青の皆さんにも頭が下がります。

「大茶盛」――一味同心、一味和合

ただお茶会といっても、有馬さんがこだわっていたお茶は、実は「大茶盛」というものでした。


大茶盛(山口県周南市・原江寺)

「大茶盛」というのは、直径40cmぐらいの大きな茶碗を用いて行われる茶会なのです。とても大きい茶器なので両脇の人に手伝ってもらわなければなりません。これを行ったのも、やはり叡尊なんですね。叡尊が「施食会」の後に、大きな茶碗を用意して、これに茶を立て、茶碗を回しながら大勢の人に施茶の供養を行ったのだそうです。有馬さんは、この「大茶盛」の意義についてこう話しています。

「ただ平等を説き、差別の不条理を知っていたとしても、具体的に肉体の上に表現され、社会で実現されなければ意味がありません。まず、自分の中に潜んでいる「内なる差別心」と闘わなくてはなりません。そこで叡尊は、このお茶の席を通して慈悲の心で『一味同心』で『一味和合』すること。つまり、『助ける人』『助けられる人』という分け隔てを捨てて、一つの心で対等に支え合うことを伝えていたのだと思います。それは、援助し救援する人に対しては、『援助し、救援している』という意識すらも捨てることを促しています。そのことに注目しなければなりません。だから、普通の伝統的なお茶は茶人に任せておいて、曹洞宗のやるお茶は大茶盛であったほうがいいのではないでしょうか」。

有馬さんがこだわったのは、ただお茶会をやればいいというものではなく、大衆による大衆のための文化を大切にするということです。文化とは、どんな状況下にあっても、生きる力、生きる喜びを引き出すために、人間が生み出した知恵であり技術なのだと思います。それがシャンティの時代になってさらに進化し深まっていったのです。

人間には心の栄養が必要――難民キャンプでの発見

では、どう深まっていったのか。少しだけお話したいと思います。

私たちシャンティは、前身である「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」以来、40年以上にわたってアジア諸国で図書館活動に取り組んできました。これは当会の活動の中核であり、特徴と言えるものです。

1980年、有馬さんたちを始めとして、カンボジア難民の支援活動を開始した当初、私たちは素人同然で、何から手をつけたら良いかまるでわからないという現実でした。それでも子どもたちに支援が行き届いていないことに気づき、ある日、絵を描かせてみました。すると驚いたことに、手を縛られて歩かされている人やリンチを受けて流血している光景などばかり。ポル・ポト政権時代、内戦状態の中にいた子どもたちは、そうした光景しか見てこなかったんですね。ショックを受けた私たちは「この世界には悲惨なものばかりではなく、素晴らしいものもたくさんあることを伝えたい」。強くそう思って、美しい写真が掲載された図鑑や絵本を日本から送ってもらって子どもたちに見せることにしました。それが現在の図書館活動につながっています。


カオイダン難民キャンプの図書館(1981年)

当時、難民支援は食料や医療の支援が常識と言われ「なぜ本なのか」と、各所からかなりの批判を受けました。そこで、心配したあるカンボジア人スタッフが子どもに尋ねてみたのです。「絵本とお菓子、どっちがいい?」。すると「お菓子は食べたらなくなるけど、何回も楽しめるから絵本の方がいい」と、少し考えて答えてくれました。人間には身体の栄養だけではなく、心の栄養も必要なのだ――。そのことに気づかせてもらった忘れがたい体験です。図書館活動の意義について確信を得た時であり、文化の力が大切だと気づかせられる体験でもあったのです。このような体験を通して、有馬さん自身も文化の大切さの認識がさらに深まり、進化していったと思います。

「文化の担い手」の現代的意義

では、このような文化を大切にする考え方が、現代的にどういう意義があるのか、簡単に触れておきたいと思います。

2020年、ユニセフ(国連児童基金)が子どもの幸福度の国際調査を行いました。その結果、38ヵ国中、日本は20位。身体的健康度は1位なのですが、精神的な幸福度はなんと37位。子どもが置かれている状況が、幸福感を削がれるほど劣悪だということです。おそらく、子どもばかりでなく、大人を含めた日本の現状なのだと思います。心の健康、心の栄養に関する関心が薄いということですね。

最近、ウェルビーイングということが言われるようになってきました。体も健康、心も健康、社会的関係も良好な状態で幸せであること。それが大事だということですね。そういう現在だからこそ、「文化の力」というものを見直して、展開する必要があることを強く思います。かつてフロイトが「戦争をなくすには文化の力を育むことである」と発言したことがあります。地道に文化の力を育むことで、人間は戦争を起こすような気持ちなどにならないというのです。本当にそうだと思います。防衛力の増強よりも、そのほうが平和への近道ではないでしょうか。

(3)とび職、ネットワーカーとしての仏教者

有馬さんとはどういう人であったかのお話の最後、「とび職、ネットワーカー」としての仏教者についてお話しします。

有馬さんが初めて会う人に自己紹介する時に、よく使っていたのがこの言葉です。「私は寺の住職だからいつも寺にいなくてはいけないんだけど、いつも外を飛び歩いているから私はとび職なんです」。こう言って相手を笑わせていました。「私はダメな住職です」という思いと同時に「でもこれが仏教者のあるべき姿なのでは」という自負の思いも込めていたのではないかと思います。


重源(出典:寺社巡り.com httpswww.jisyameguri.comeventtodaiji-syunjodo)

その面で、有馬さんの筋金となったのが重源というお坊さんです。重源(1121-1206)は、山林での修行ののち、真言宗醍醐寺で修行した「聖」といわれた仏教者です。とても民衆を束ねる力があったようです。平安時代の末期、東大寺が源平の戦いで焼失した後に、朝廷がその再建をどうしようかと考えて、今で言えば、オーガナイザー、総合プロデューサーとして白羽の矢を立てたのが、この重源でした。それだけの手腕、才覚があることを見込まれたわけですね。重源は、叡尊とともに有馬さんが特に思い入れをしていた仏教者です。

聖たちが活動の拠点としていたのが別所という宗教施設だったのですが、重源はその別所を中心にして、様々な事業を展開したんですね。有馬さんは、特にその点に注目していました。別所は宗教施設であるわけですが、重源は、それをさらに技術集団のターミナル、資材調達の出先機関、縫製施設、そして職業訓練センターでもある、言わば複合施設に作りかえたんです。それを各地に7カ所作って、そこを拠点として各地から資材を集めて、奈良に運んで建築するという壮大な事業を成し遂げたのです。そこに関わったのは、門弟たちもいましたが、多くの名もなき草の根の人たち、名もなき大衆だったわけです。

7カ所の別所の一つに、山口県防府市の阿弥陀寺があります。そこには、今も石風呂というものが残っています。これは、大仏再建に使う用材の切り出しに多くの人夫たちが携わっていたわけですが、彼らが疲れを癒して英気を養うために重源が用意したものなんです。保養施設ということですね。つまり、重源という人は、ただ人夫を手足のように使うのではなく、身心の健康までの配慮をしたということです。そして、別所の運営に関わるそれぞれの人間の個性に応じて、眠っている潜在能力を起こそうとしました。ものを見る目、才能を育てる力を持つカリスマだったということですね。そのように、一人ひとりを活かし、束ねて、大事業を成し遂げる。いわば、ネットワーカー、プロデューサーとしての重源に有馬さんはたいそう惹かれて、学ぼうとしていました。

「とび職」の現代的意義

では、このように自分を「とび職」と呼んで生き抜いた有馬さんの姿の現代的意義をどう捉えたらいいかということですね。私が思うところを簡単に申し上げます。


大菅氏

有馬さんが探究した重源という人は、ただ事業を遂行するというだけではなく、人々が持っている潜在能力を引き出し、ネットワークによって遂行する手腕をもった宗教者でした。むしろ、現代にこそ、そういう人が必要ではないでしょうか。そして重源が活動拠点として新たに作りかえた別所のように、その時代の社会課題に対応した多目的な機能を果たすことが今の宗教施設、寺院に求められているのではないでしょうか。おそらく有馬さんはそういう目で、つまり、現代にどう生かせるかという観点で重源から学ぼうとしていたのだと思います。

最近は、災害時において避難所としてお寺が対応してくれるようになり、以前と比べて、僧侶の皆さんの問題意識が大きく変化してきていることを感じます。なお一層、この混迷する時代に呼応する僧侶のはたらき、寺院のはたらきというものを探究していただきたいと願うところです。

結び

こうして、有馬実成という人は若かりし頃、全曹青において「大衆教化の接点を求めて」を拠り所として歩み始めたわけです。その後、カンボジア難民キャンプ、アジアと出会うことになってボランティア、NGOの世界に飛び込んでいきました。お話ししてきたように、全曹青で種が蒔かれ、育まれたことがシャンティの活動となって大きく花開いたのではないかと思います。そういう意味で、有馬さんにとっての卒業制作が「シャンティ国際ボランティア会」での活動ではなかったか。私にはそう思われてなりません。そんな意味で、有馬実成という接点で私たちシャンティと全曹青の皆様はつながっているようにも感じるのです。どうか、これからもご一緒に、この時代に必要な仏教と社会のあり方というものを考えていただければと願います。ありがとうございました。(第一部・完結。第二部・島薗進氏の講演「曹洞宗の大衆教化について」につづく)

広報・リレーションズ課 日比