2024.09.11
お寺の取り組み

【対談講演】「〈大衆教化の接点〉を考える」その④

協働事例
講演会報告

昨年11月29日、大本山總持寺で実施された「全国曹洞宗青年会創立50周年記念事業」対談講演「〈大衆教化の接点〉を考える」の内容をお伝えしています。
今回は、第二部の東京大学名誉教授・島薗進氏の講演「曹洞宗の大衆教化について」をお伝えします。

第二部・講演「曹洞宗の大衆教化」島薗進氏


全国曹洞宗青年会ホームページより

皆さん、こんにちは。大衆教化という言葉が、時代にうまく合っているのかどうか、そのことを含めて考えていきたいと思います。仏教は、出家者こそが本来のもっとも大事なことを行い、そのことで立派なサンガができる。出家者集団ができることこそが、世の中の人のためにもなるという側面がありました。ところが、在家はどうなっているのかということが長く問われてきたと思います。大乗仏教というのは、そこの問題意識から、まさに在家と共にということを課題にしたと考えられます。これは大衆教化ということでもあります。つまり、在家と共にどうあるか、これが仏教の課題であり続けたということです。

近代仏教の課題としての大衆教化

ここで取り上げる方は宗教学者の池田英俊先生(1929‐2004)です。曹洞宗のお寺のご出身で駒澤大学を出られてから、北海道大学で歴史を学ばれて、近代日本仏教はいかにして在家とともに歩む仏教を形にしようとしてきたかを問うた方です。とくに禅宗の場合、在家と共に歩むかというようなことが見えにくいところがあります。明治維新の時に仏教界全体として、新しい方向で在家と共に歩む仏教ということが課題になりました。曹洞宗の場合、一つには教会結社の広まりという形で進められました。通仏教的にそういう運動が起こってきましたが、曹洞宗の果たした役割が大きく、その担い手に大内青巒(1845‐1918)という人がいます。

この方は、育ったところはお寺ですが、在家として『明教新誌』という当時の代表的な仏教のメディアを担って、そういう運動を始め、非常に勢い良く全国的な教会結社の形成を促しました。なぜ教会結社をつくるかというと、これは近代社会とは、在家とともに仏教を世に広める新しい時代だということです。キリスト教が入ってくる、それに対抗できるような日本の社会、仏教に支えられる国民社会をつくっていく。それには、在家とともに通仏教的に進める必要があるということです。

これは、そもそも仏教が在家と共にという課題を持っていることの、新たな自覚だったと思います。一方で、釈雲照(1827‐1909)という真言宗の僧侶がいます。その前に、福田行誡(1809‐1888)という浄土宗の僧侶がいます。いずれも戒律の問題を取り上げ、十善戒というものを重視して、それによって在家の仏法実践という道をつけていくという方向だったと思います。曹洞宗には大道長安(1843‐1908)という新潟出身の僧侶がおり、観音信仰を特に重視して、救世教という運動をつくりました。そういう道もあったけれども、この大道長安は異端とされます。曹洞宗の本流としては、曹洞扶宗会という在家を巻き込む運動を起こそうとしました。ところが、曹洞扶宗会の在家とともに仏教集団をつくっていくという構想は挫折していく、そういう道筋があったと思います。

『修証義』と在家の仏教実践

さらに、『修証義』というお経がつくられます。大内青巒が主な担い手となってつくったもので、とにかく道元禅師の『正法眼蔵』を基盤とし、通仏教的にそして在家が実践できる仏教の信仰と実践の内容をまとめています。明治期の曹洞宗には、一方では大道長安のような、また大内青巒が考えたような在家とともに歩む仏教の方向性があったということかと思います。在家と出家は違うけども、明治維新の時は今こそ在家と共に歩むんだという、そういう大きな気運があったと思います。


会場の様子

『修証義』を読んでいると、在家の心に響く道元禅師の言葉が選ばれていることがわかります。その中には、たとえば四摂法があります。これは日常生活で実践できる菩薩行、あるいは利他的な実践、他者と共にいかに歩むか、人を助けるということがいかに重要かということが書かれております。第二次世界大戦後になって、今、大菅さんがお話しくださった有馬実成さんが目指したものを思い出しますが、こういう言葉があります。「衆生を先に渡して自らは終に仏にならず、ただし衆生を渡し衆生を利益するもあり」。これは四弘誓願を思い起こさせます。「あらゆるご縁で人のことを思う」と説かれています。こういう言葉が道元禅師の中にあるということですね。一般の社会の禅のイメージ、また只管打坐の教えというところからは思い描きにくいのですが、実は菩薩行的な実践が道元禅師の教えの重要な部分であったということであると思います。

在家の運動――瓜生岩子と法華=日蓮系の運動

そういうことを自らの生き方として実現した人に、たとえば瓜生岩子(1829‐1897)がいます。福島県の会津・喜多方の方で、福島愛育園という今もある児童養護施設をつくりました。現在は、福島市円通寺の吉岡棟憲住職が理事長をなさっています。瓜生岩子は在家でしたが、ご家族も亡くされ、戊辰戦争で地域も混乱し、女性や子どもが取り残されます。その中で女性と子どもを助ける働きに生涯を捧げるようになりました。その考え方を表しているのは「仁慈隠惕」という言葉です。これは仏教よりも儒教の言葉とも言えるかもしれません。しかし、この方がお寺の方たちと、それも曹洞宗が多いですけれども、宗派を超えて協力関係を育み、さまざまな人助けの活動をしました。しかし、仏教史の中ではあまり重視されていません。曹洞宗のお寺と在家がそういう方面で大きな役割を果たしたわけです。この瓜生岩子を助けたお寺が福島県全域にもありました。そういうことが日本の仏教史を考える上で重要だというのが私の考えです。

別の方面からこの問題を捉え返していくと、なぜ近代になって創価学会も含めて日蓮系の仏教が多くの人々の支持を得たかという問いがあります。それは、世に仏法を表す、正法を世に表すということが日蓮宗の課題で、うまくそれに合う布教の形を持っていたわけです。在家中心的な菩薩行の実践を、在家が担い手になって行い、そして社会づくりにも積極的に取り組むという仏教のあり方です。日蓮の代表的著作としては『立正安国論』ですね。国に正法を広めることが、国を支えるという考えがあったことがわかります。

梅花講などの御詠歌講の意義

しかし、日蓮宗だけではありません。伝統仏教の出家を重視する流れの中からも重要な試みはさまざまに行われました。私が池田英俊先生の東北仏教の研究というプロジェクトで、梅花流の研究をさせていただきました。つまり、戦後に仏教教団は在家と共に歩むという点で、御詠歌講で大きな展開があり、女性がそこへ関わったということがありました。これをどのように考えたらいいか。曹洞宗総合研究センターの「梅花流詠讃歌研究プロジェクト」が『曹洞宗教団史における梅花流』という形でまとめ、現在e-Bookとして掲載されています。私はこの研究から多くを学ばせていただきました。それによって分かるのは、戦後の曹洞宗教団は、正法を復興するという大きな目標の中で、いかに在家と共に実践に取り組むかがあらためて課題になったということです。

そのような中で、梅花流のスローガンは「明るい日本、正しい信仰、仲良い生活」ですが、世に正法を広め、仏教的な生き方を具体化するということです。ここには『修証義』が生きていると捉えることができると思います。明治維新が近代日本の青年期とすると、戦後日本はもう一つの新しい青年期と言えます。先が見えない中で大きな見通しを立てて、前に進んでいこうという時だったと思います。そういう時に、正法を世に表していくかという課題の中で、梅花講は具体化できる大きな意義をもつ活動形態だったということです。

御詠歌講が果たした役割の例

実は御詠歌講というのは、昔は村々で講をつくっており、お寺の外でやっていたのです。これを仏教のお寺の活動と結びつけるのは、まずは昭和初期の高野山真言宗の金剛流ですが、その前に大正時代に大和流という在家の方が始めたものがありました。金剛流の後は真言宗智山派の密厳流というふうに、真言宗系で戦前に広まって、戦後になって浄土真宗以外のほとんどの宗派で行われていました。戦争でたくさんの方が亡くなる中で、御詠歌・御和讃の中で一番よく人々の心に染み入ったのは、追弔御和讃だったりするわけです。そういうモチベーションを持った女性たちが、一人ひとりの苦に向き合いながら仏道を学び広めていく、そういうふうにして広がっていったわけです。


島薗氏

私が調べて見出した例では、たとえばシベリアに戦中戦後に亡くなった日本人のお墓がまだ残っています。それを秋田県の青年会の人たちが現地に行き、その中に曹洞宗の僧侶が入っていて、お墓の前で御和讃を唱えるというようなことが行われていました。また、石牟礼道子さん(1972‐2018)の『苦海浄土』の第二部『神々の村』に、水俣病の被害者や遺族たちが、チッソ株式会社の株主総会に御詠歌講の装束で乗り込み、そこで水俣病で亡くなった人たちの位牌を突き付けて、皆で御詠歌を唱えるという場面があります。こういうふうに御詠歌講は、日本の社会のある時期に仏教教団が在家を交えつつ、社会的にもさまざまな働きをする助けとなっていると思います。

災害と新たな仏教実践の形

私が曹洞宗の青年会の方々と関わるようになったのは東日本大震災ですが、1995年の阪神・淡路大震災以降、在家と共に歩む仏教ということが新たな課題として、もう一回浮上してきたと思います。その先駆者として有馬実成さんがいます。仏教教団が新たに在家と共に歩むという道を求めている、これはいわゆる葬祭仏教的な形では、在家との交わりが深くならない、しかも葬祭の簡略化が進み、仏教儀礼も進んで、あまり心を分かち合う場面が少なくなっていく。そういう中で在家とともに仏道を形にしていくということをさまざまな手で求めていくということがあります。私は、全日本仏教青年会の方たちと行茶活動などをさせていただいて、それがこの被災地の地域住民からも歓迎されている、そういう場面をともにさせていただきました。

そして、東日本大震災の中から臨床宗教師という運動が起こってきて、日本臨床宗教師会が立ち上がります。今、私はその会に関わるとともに、宗教者災害支援連絡会という団体の代表をしています。私は在家で仏道のほうにも非常に浅い人間ですが、つなぎ役としてそういうことをさせていただいているという次第です。こういう活動は、仏教がもともと持っていた課題の現代的な形なのだと考えているわけです。以上で終わりにさせていただきます。ありがとうございました。(第二部・終了。第三部の対談「大衆教化の接点を考える」につづく)

広報・リレーションズ課 日比