ミャンマー僧院学校の今~暗闇の季節~
皆さん、こんにちは。ミャンマー事務所のトータです。
僧院学校を訪れると、校舎内は子どもたちの遊ぶ声で一杯です。先生方は忙しそうにあちこちを走り回っています。入り口では、親たちが給食を食べさせながら、おしゃべりしています。何事もなかったかのような風景です。
ミャンマーでは貧困層の子ども、ストリートチルドレンや孤児、少数民族地域での紛争から逃れてきた子どもといった社会的に脆弱な立場の子どもたちに対し、無償で初等・中等教育機会を提供する僧院学校が公教育として認められています。僧院学校の多くは政府からの予算配分と地域住民、国内の民間企業や支援者からの寄付も合わせ、教員給与、制服や学用品を児童に提供し、学校運営を行っていますが、僧院学校もクーデターによる大きな影響を受けています。
これまで活動を共にしてきた僧院学校の学校長に、現在の状況について話を聞いてみました。簡単ですが、ここに紹介します。
クーデター以来、僧侶の役割は宗教的概念から政治的概念に変わりました。以前は、僧侶は世間からの敬意を受け、とても強い存在でした。しかしクーデター後、軍側を支持する僧侶に耳を傾ける、そういった考えを持つ市民も出て来ています。しかし、親にとっては、僧院学校は子どもを守る唯一の場所であるということは否定できず、僧侶の努力なくして学校は開校できません。急激な物価上昇により人々の生活が困窮化する中、経済的な問題から、市民は僧院学校への支援が出来ません。学校運営を続けるためには、教員数を減らすなど対応しなければならず、長期的運営に不安が募ります。僧院学校には学校運営員会が設置されており、公共から資金を集める働きも行っています。地元地域のみならず、他の県や郡も訪問して支援をお願いしてきていますが、クーデター以降、安全性の問題で当局から移動許可が下りず、学校運営のための資金を集めることが出来ずにいます。そのため、学校によっては僧院にある施設を地域住民による結婚式等の使用に貸し出して、その収入を運営費に充てるなど代替案を考えています。
僧院学校の先生は市民不服従運動には参加していませんが、クーデターの影響はそうした先生方にも及んでいます。今抱えている問題は何かと尋ねると、おそらく給料だと答えるでしょうか。この「給料」という意味の裏側には、日々の生活や生きていくための苦労があるのだろうと思います。先にも述べたように、クーデター以降、学校運営が厳しくこれまでのような収入を得られないため、給与を減らさざるを得ず、教育省から支援に頼るしかありません。
大学の近くにある僧院学校で働く先生たちは、クーデター前は大学教員から毎月、寄付を受けていました。しかし今は大学教員の多くが市民不服従運動に参加しているため、支援もなくなってしまいました。
ある一人の先生がこう話しました。「私は10年間教師をしています。教えることが大好きなので辞めたくはありません。食料やガソリンの値段がどんどん上がっていて、僧院学校での給料は今の生活には十分ではありません。仕事を続けていくことが難しくなるかもしれません。有難いことに、校長先生が平日の昼食を提供してくれています。うちの学校には女性の先生が3人いますが、2人はすでに結婚していて、ご主人の収入があるので、まだ何とかやっていけてるように思います。でも今後の生活を考えると、彼女たちが仕事を続けるかどうかはわかりません。私はというと、独身で両親と一緒に住んでいます。先生を辞めたいとは思いませんし、私たちを頼りにしてくれている子どもたちを愛しているからです。」
別の先生の声です。「私は22年間、教員として働いています。私も他の先生たちも給与の問題があるからといって教えることを辞めるつもりはありません。何故なら、子どもたちが大好きだからです。先生のいない学校は意味がない。私たちは女性で独身でもあるので、家のことを心配する必要はありません。この少ない収入で何とか生活できています。寄付がなければ学校運営は難しいことは確かですが、私たちの学校だけでなく、全ての僧院学校がこのような状況に苦しんでいます。」
子どもたちは一番の犠牲者です。何故なら彼らは2年間、学びを失われたからです。途中、再開したこともありましたが、表面上だけでした。子どもたちが全員戻ってきたわけでもありません。高校生や中学生たちは、家計を支えるために店やレストランで働いています。結婚した子どももいます。兄妹の年齢が近いため、どちらか一人だけが学校へ行っています。親に選択肢はありません。僧院学校は子どもにとって安全な場所であり、僧侶は頼りにされています。権力者や地域社会と折り合いをつけることができるのも僧侶の役割です。
公立学校に全幅の信頼を置いていない親たちにとって、僧院学校は重要な存在です。クーデター後に再開した公立学校では、入り口に銃を持った軍服の男たちがいて、教室では市民不服従運動に参加していない先生たちがおり、自分の子どもに対して心配と不安を感じてしまいます。一方で僧院学校にはこうした光景は見られない、だから僧院学校の方が安全だと思い、願う親たちがいます。
子どもたちの教育のために尽力する僧侶、熱心に教える先生、そして子どもたちや親。それぞれが様々な思いの中にあっても助け合い、耐え続けています。いつまで力を持ち続けられるのか、分かりません。ですが、光の季節が来ることを願いたいと思います。
ミャンマー事務所 トータ