東日本大震災から12年―慰霊行脚―
わが山元町は東側約12キロがすべて海に面している。しかもほぼ平らな地形だ。東日本大震災の大津波が、もろにそこを襲った。津波最大波は12.2mで、町全体の40%が浸水した。可住ベースでは60%にもなり、県内最大クラスだ。犠牲者は町人口の4%にあたる637人に及ぶ。
あれから12年。数え切れないご支援等を賜り、少なくとも浸水地域は見違えるようになった。最初に復興ののろしを上げたのは、町の特産品である「いちご」であった。名産品特に食べ物の力は大きい。復興への見事な追い風となった。
さて、3月2日郡内の曹洞宗青年会僧侶と共に、特に被害甚大だった町の南部の徳泉寺(筆者兼務住職)から千年塔(同住職)までの約5キロを慰霊行脚した。歩いた道路のほとんどは、元JR常磐線の線路だったところである。線路が内陸移転したため、防潮堤の役目も担って嵩上げ道路になったのだ。高いところは7mある。確かに見晴らしは良い。松林はなくなったが、海や集約された広大な農地が見える。その大地に震災前は、多くの民家があり人が住まいしていたのだ。住まいしていたがゆえに犠牲になった。現在は災害危険区域となり、住宅建築は許可されない。整い過ぎてる景色が、逆に辛すぎる。慰霊行脚のお経の声を絞り出すばかりであった。
この整った景色を見て、誰もが単純にきれいなところだと思うかもしれない。長い歳月で震災が風化していくどころではなく、震災前の景色を知らない子が生まれ育ってきているのだ。あるいは震災直後の破壊に満ちた地獄のような大地を知らない人に、広大な農地を前に、震災のことをどのように伝えられるだろうか。
私たちは、「隣の芝生」ではないが、何かと比較して物を判断することが多い。被災地の今の整った景色だけを見て、そこの被災地の何たるかを判断するのは難しい。しかし、知らないものは知らないのだし、見たこともないものを想像せよと言っても限界はあろう。
震災前からこの被災地に住む僧として、あの時から一変した故郷になってしまったことを、少しでも感じていただけるよう、嵩上げ道路を慰霊行脚するのも勤めと感じた。草鞋(わらじ)の片方は、藁(わら)がすり減って、穴が開いてしまった。しかし、犠牲者の無念を思えば、足の痛みなど何ほどのものでもない。僧ならではの震災の伝え方を今後も続けよう。
「千年塔」
奈良県西大寺の日本最大級の五輪塔と言われる叡尊塔を等身大モデルに制作された。
叡尊はシャンティ創始者有馬実成師が日本のボランティアの先達と尊んでいた鎌倉時代の僧。
後方の建物は震災遺構の中浜小学校。
公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会
理事 早坂文明(宮城県・徳本寺住職)