【開催報告】世界難民の日オンラインイベント「タイ国境ミャンマー(ビルマ)難民キャンプでの20年」
「世界難民の日」を翌日に控えた6月19日、タイ国境ミャンマー(ビルマ)難民キャンプでの20年間のシャンティの活動を振り返り、国境における状況をお伝えするオンラインイベントを開催しました。
シャンティの難民支援の歴史は1981年にさかのぼります。当時、タイ国境には数十万人のカンボジア難民が命からがら祖国から逃れ難民キャンプで暮らしていました。シャンティは難民キャンプで移動図書館活動、常設図書館の運営を開始しました。その後、ラオス難民キャンプでの印刷活動を開始。タイ国境のミャンマー(ビルマ)難民キャンプでは、2000年から活動を実施。アフガニスタンでも、2001年のアメリカでの同時多発テロ後、激しい空爆が行われ多くの難民が発生しました。シャンティは2001年からパキスタンに逃れていたアフガニスタン難民への食糧支援を実施しました。その後はアフガニスタンに帰還する難民への越冬支援など、継続的に難民支援を行っています。このように、難民キャンプでの図書館活動は、シャンティの原点とも言えます。
【第1部 タイ国境 ミャンマー(ビルマ)難民キャンプでの20年】
フォトジャーナリストの川畑嘉文さんをファシリテーターにお招きし、長年難民キャンプで活動してきたセイラー職員と中原職員から、タイ国境での難民支援を開始してから現地で事業を行ってきた職員の想いや、難民キャンプで暮らす人びとの声をお伝えしました。
難民キャンプの概要
タイ国境の難民キャンプのことを、ご存知でない方も多いかもしれません。この難民キャンプは情報規制が厳しく、ジャーナリストが自由に入域することができません。そのため、報道されることが少なく、「忘れられた難民キャンプ」と呼ばれています。
1949年頃から少数民族と軍事政権との対立が始まりました。軍事政権からのはく奪や迫害から逃れるため、1975年以降には避難民が国外に流出し始めました。タイ側と国境を接するカレン州、カレニー州では村の焼き討ちや強制労働、略奪など様々な人権侵害が起こり、多くの人びとが難民となりタイへ逃げてきました。1984年には、タイ・ミャンマーの国境で約1万人の流出が確認され、難民キャンプが公式に設置されました。1994年には、約8万人に増大し、その後も難民の流入は続きました。キャンプはタイ政府の監督下にあり、UNHCRが難民保護を担当、NGOが衣食住、保健、医療、学校教育などの援助活動を行っています。現在、タイ内務省に公認されて活動するNGOは13団体で、そのうち日本のNGOはシャンティのみです。
キャンプはメーホンソン県からラチャブリ県までのタイ国境沿いに9か所あり、そのうち北2か所にカレニー族、7か所にカレン族が主に住んでいます。難民キャンプの人々の衣食住、宗教施設、インフラなどは国際支援によってまかなわれています。しかし、難民の長期化により近年は国際支援が減少しており、NGOの撤退や縮小が相次いでおり、人びとの生活に影響を及ぼしています。中には、自分でレストランなどを経営する人、NGO職員としてキャンプ内で働き現金収入を得ている人もいます。外からの支援もあり、一見すると生活が成り立っているように見えますが、移動の自由がなく、キャンプで生まれ育った子どもたちの多くは、キャンプの外の世界を実際に見ることができていない状況です。
キャンプ内の住居は密集しており、人口密度が高く、土地限られていることもあり、大変険しい山肌に家を建てて住んでいる人も多くいらっしゃいます。
キャンプ内のほとんどの建物が竹や木でできており、あくまで一時避難所であるため、住居はいつでも取り壊し可能な木造に限られています。そのため、火事や雨季による洪水の際に被害が大きくなります。2007年以降、公共施設の一部がコンクリートで作られることが許可されました。NGOが毎年修繕に当てていた資金を他に当てることができるようになりました。
1997年に教育分野の支援活動がタイ政府に公式に認められ、教育系NGOが活動を開始しました。キャンプには幼稚園、小学校、中学校、高校、高等教育機関、特別支援学校等があり、子どもたちは学習の機会を得ています。カレン教育委員会と教育NGOが連携して、教員の研修や教材作成なども行っています。学習環境は決してよくなく、キャンプ内での就労が限られていることから、卒業しても仕事に就くことができないことが若者にとって大きな課題になっています。
タイ側における難民問題の解決には、ミャンマー本国における政府と少数民族間における和平プロセスに大きく影響されます。和平プロセスが進んだからと言って、人びとが本国で安全に日々の生活を営む保証にはなりませんが、難民帰還という点では和平プロセスは大きな取り組みです。2011年の民政移管後、少数民族との停戦合意による民主化への動きが加速化しましたが、すべての少数民族との停戦合意ではありません。これまでの歴史を踏まえてプロセスが進むとは言え、難民問題がすべて解決するわけではありませんが、大きな期待になりました。2012年のミャンマー政府とカレン民族同盟の停戦合意以降、難民による自主帰還の準備が進められました。2016年にはタイ・ミャンマー政府の合意のもとUNHCRの調整による帰還プログラムも行われ、初回は71人、2018年には93人の方々が帰還されました。2019年にも帰還した方がいらっしゃいましたが、新型コロナウイルスの感染拡大、2021年2月1日のクーデターにより、帰還のプロセスは止まってしまいました。
難民問題の解決策として、避難先への帰化、本国への帰還、第三国定住の3つがあります。タイ政府は長期化する難民問題に対して方向を転換し、2005年に第三国定住のプログラムを開始し、約9万人の方々がアメリカを中心とした第三国に渡りました。第三国定住のプログラム自体は様々な葛藤があり、当時定住を望んでいる難民の数は全体の2割程度でしかなく、残りの方々は帰還することを望み、難民キャンプに留まりました。当時お話を伺った方は、「定住してしまうと自分はきっとカレン人ではなくなってしまう、という不安がある。近い将来、カレンという民族も文化も自分たちの国も失われてしまうのではないか。そのため、第三国定住は希望せず、祖国に帰れる日を待ちたい。」とおっしゃっていました。
帰還はキャンプで生まれ育った子どもたちにとっては、ミャンマーを祖国と感じられないという課題があります。また、国が本当の意味で安定しなければ帰還を決意するのは難しい、と考える難民の方々が多く見られます。現状では帰還のみが解決策となっていますが、その目途が立たない状況が続く中で、キャンプに残りたいという人が多くいます。
中原:長年キャンプでの活動に関わってきましたが、状況は変わっていないという印象です。帰還プロセスが進み、解決の光も見えていましたが、クーデターで帰還の話は遠のいてしまいました。キャンプの存続が長期化すると思います。このような中で、人びとのアイデンティティが今後どう継承されていくのか、若い人たちが自分の人生をどう生きていくのかがとても懸念されます。
川畑さんが見てきた難民キャンプ
川畑さん:ミャンマー(ビルマ)難民キャンプの様子をお聞きすると、さまざまな支援が行われていて、難民の方々は意外と恵まれているのかも、なんて考える方もいらっしゃるかもしれません。確かに生きていくための衣食住を与えられ、教育システムがあり、生活が脅かされることはありません。ただ、やはり足りないことだらけだと思います。
課題は「キャンプでは自分から積極的に動かなければ、何もすることがない」ということです。
カレン族が暮らす難民キャンプはいくつかありますが、ほとんどは街から遠く離れた山の中にあります。こんな山深い場所にあれば簡単に街に出て何らかの活動を行うことができません。そもそも、難民たちは特別な許可証を持っていないと外に出ることもできません。キャンプのまわりには鉄条網が張り巡らされている場所もありますし、タイ当局による検問所も設置されています。自由に外に出ることが許されないキャンプというのは、私が訪れた他の国の難民キャンプでは見たことがありません。
子どもたちなら学校があります。ただ、学校を卒業した大人たちは特にすることもなくなってしまいます。キャンプ内の経済活動は限られているため、仕事に就くことも難しいのです。
想像してみてください。私たちは今コロナ禍で外出を控えるよう、自粛を強いられています。何もできないことが、どれほどつらいことかに私たちは気が付いたのではないでしょうか。キャンプに暮らすある女性が「私たちは鳥かごの中の鳥のようだ」と話しました。まさに的を得た表現だと思います。
そんなキャンプで長年にわたり生活してきた方々にお話を伺いました。
1984年にキャンプに来たモーゼさん
彼は、ミャンマー軍によって暮らしていた村が焼かれ、拘束され奴隷のように働かされていたころ、難民キャンプに逃れて来ました。彼は、太平洋戦争末期に旧日本軍の捕虜の監視をしていて、日本語を話すことができます。そんな彼は長年のキャンプ生活を振り返り、「ここでの生活に意味などない。行けるなら日本でもどこでも行ってみたい」とおっしゃっていました。
32年間キャンプに暮らした70歳の女性
彼女は最近、家族とともにミャンマーに帰還しました。そこではキャンプよりも苦しい生活を強いられています。帰還先では住居と小さな発電機を提供されましたが、それ以外の食糧などの支援は受けられません。自分で何とかしなければならないのです。戦火を避けるためにタイに逃れ、長い間自由のない難民キャンプで暮らし、そして、ようやく故郷に戻ることができたというのにまだつらい日々を過ごしています。「人生に楽しい時間などほとんどなかった」とおっしゃっていたのが印象的でした。
難民キャンプに入れば、紛争で命を落とすことはないし、さまざまな支援を受けることができます。だから彼らは幸せだ、なんていうことは決してありません。難民キャンプに入るということは、人間にとって命が保証されただけなのです。人生にはやりがいや達成感、誇りを持つことのできる活動が必要です。「自由に未来を選択することができない」のが難民たちの置かれた状況です。
そんな難民キャンプで、シャンティはこれまで多くの活動を行ってきました。子どもたちだけではなく、そこで暮らす人びとの日常の中に図書館があります。
20年の軌跡
セイラー:私がBRCで働いてきた20年間の経験と記憶を共有することができ、大変嬉しく思います。私は教育分野で働きたいと思っていましたが、シャンティと一緒に働けてよかったと思っています。
シャンティが活動を開始する前は、NGOによる教科書、教師の給与、教材などの支援はありませんでした。キャンプの中には本も図書館もありませんでした。私は子どもの頃、教育の機会を得ることが難しく苦労しましたので、子どもたちには同じ思いをしてほしくないと思い活動を行っています。
シャンティが事務所を立ち上げ、事業を開始したのが2000年頃です。特に必要性が高く、他の団体が支援に入っていない北の2か所の難民キャンプで活動を開始しました。事業を開始する時に図書館活動の指針を決めました。最初は無料で開館することを理解してもらうのが難しかったです。徐々に対象の難民キャンプが増え、最終的にはカレン系の7か所の難民キャンプで18館の図書館を運営するようになりました。
2001年 1館目の図書館が開館
難民キャンプに初めて図書館を設置したとき、人びとはとても興奮していました。子どもたちにとって図書館での活動はとても新鮮だったようで、多くが「今までこんな経験をしたことがない」と言っていました。図書館では、新しく学べますし、学校に行かなくても学習することができ、すべての人の生涯学習をサポートしています。図書館委員会の一人が「カレン難民キャンプにこのようなコミュニティ施設があるとは思ってもみなかった。信じられない」と言っていたのを今でも覚えています。
2001年 カレン語の絵本を出版
図書館にある本のほとんどはビルマ語で書かれています。しかし、カレン系のキャンプに住む人の大半は、カレン語の方が得意です。カレン族の人々は、物理的にも文化的にも長い間抑圧されてきたため、カレン族の文学を促進し、保存することの難しさに直面していました。
シャンティは、カレン族とその文化に精通したメンバーで委員会を結成し、編集技術を習得するための研修会を行いました。また、カレン族の口承で伝わる民話を集めて編集し、文章化しました。さらに、カレン族の作家を育成するため、物語と絵のコンテストを開催し、最優秀賞を受賞した作品を絵本として出版しました。
2003年 日本から専門家を招いての合同研修
プロジェクトを始めたとき、私たちは専門的なスキルを持っていなかったので、日本からたくさんの専門家に来てもらいました。彼らは、読み聞かせの方法、人形劇、装飾の仕方、本の管理方法などのスキルを教えてくれました。今では私たちシャンティのスタッフが専門家となり、図書館員や教員向けの研修を行っています。
難民キャンプでは、インターネットやその他の機器へのアクセスが制限されているため、学校以外で知識を得ることは非常に困難です。そこで、彼らはトレーニングを受けた後、学んだこと、特に子どもの成長や発達について図書館の利用者に伝えます。これは、難民キャンプで知識や技術を広げる良い方法だと思います。
この頃から、各難民キャンプ内での人とのつながりや活動への理解も深まりました。しかし、学校に行ったことがない大人も多かったことから、イベントを通して母親たちが図書館に来る機会を作りました。また、地域に根差した図書館にするために、各図書館委員には地域の中の世話役や学校の先生など、子どもたちのことやその地域のことを知っている方になっていただきました。
この頃、NGOや国連機関の会議では、自宅に引きこもりがちな年配者のこと、若者たちの非行の問題や青年たちの課外活動の不足が課題として挙がっていました。図書館は地域の拠点のひとつでもあるため、様々な課題に寄り添い、できることに取り組んだ時期で、多い時には25館の図書館を運営していました。
2004年 伝統文化継承活動
カレン族は独自の伝統的な踊りや楽器を持っていますが、難民キャンプでの長期滞在の中で、その伝統文化を次世代に継承することが難しい状況にあります。また、難民キャンプで生まれた子どもたちの多くは、自分たちの伝統文化を知らずに育っています。そこで、踊りや楽器を学ぶことで、カレン族の伝統文化を伝え、継承することを目的としました。
2004年 高齢者の方々のための活動
難民キャンプでは、障がい者や女性などの社会的弱者に対するサービスはありますが、高齢者に対するサービスはほとんどありません。図書館は民族の伝統文化を継承する場でもあるので、シャンティは月に一度、図書館で高齢者を招いた活動を行っていました。主な活動内容は、カレン族の民話や伝統的な詩・ターを集めて記録すること、カレン族の文化や歴史を子どもたちに伝えること、そして健康のためにヨガをすることです。この活動で集められたお話は、出版物にも使用されました。
2006年 TYV(図書館・ユース・ボランティア)
TYVを組織して、図書館での活動をサポートしたり、コミュニティに出向いて図書館のサービスや活動についての認知度を高めたりしています。TYVの活動は、学校を卒業した人や学校に通っていない人など、多くの若者が社会活動に参加するよい機会となってきました。活動をするにあたり、読み聞かせや歌、人形劇の上演など、図書館活動のスキルを習得するための研修を行ってきました。多くの人が活動に参加することで、TYVと図書館の間に深い絆が生まれました。彼らの多くは図書館を利用し続け、その後コミュニティ・リーダーや教師、図書館員になっており、図書館活動に協力的です。
2009年 子ども文化祭
セイラー:難民子ども文化祭ではカレン系の難民キャンプに住むすべての民族に、イベントへの参加を呼びかけました。同じ難民キャンプで暮らしていても、学校や言葉が異なるため、民族が異なるとつながりを持つことが難しい状況があります。
難民子ども文化祭を通して、お互いを認め合い、他の文化を尊重し、調和することで、つながりや友情が生まれます。同時に、子どもたちは自分自身に自信を持つこと、自分の文化を大切にし、表現することを誇りとすること、文化を守ることの大切さに気づくことができます。
子どもたちは異なる民族であっても、すぐに友だちになることができます。子どもたちは未来を担う世代であり、将来、障壁や差別のない、調和と平和のある生活を送ってほしいと願っています。
中原:活動開始から10年が経ち、図書館の認知度や利用者も安定してきました。この頃から、どうしたら図書館に直接来ることができない人たちも本を手にすることができるだろうと考えるようになりました。職員と考えた結果、学校の図書室を整備したり、公民館のような場所で読み聞かせを行ったりと、図書館を出てそれまで以上に地域に足を運ぶようになりました。
また、徐々にミャンマー本国への帰還の話も進み始めました。様々な団体が本国に戻った後のことを考えて活動を変化していました。図書館でも何かできないかと考え、パソコンを使用する方法を教えたり、掲示板を設置して帰還に関する情報などを伝えたりしました。
シャンティは2019年からミャンマーのカレン州で事業を立ち上げましたが、図書館の知識を持った人がいないため、シャンティのベテラン職員に講師になってもらい、人材育成研修や図書館の建設、家具の配置などをサポートしてもらいました。
2017年 学校図書室の整備
セイラー:研修を行い、学校の図書館を設置してから、コミュニティ図書館に来なかった多くの子どもたちが本を読み始めたことを実感しています。先生方も、子どもたちが本を読むことが良い影響を与えることを理解し、教室で本を活用することにもつながっています。本は子どもたちが知識を得るだけでなく、心を育てるのにも役立ちます。
中原:図書館委員会が、「シャンティの活動は他のNGOと違う。図書館活動を通して、子ども、若者、親、高齢者が知識と技能を図書館から得られている」と言っていたのが印象に残っています。この活動を、キャンプが続く限り何とか継続していきたいと思っています。
印象に残っている人びと
セイラー職員が、20年間の活動を通して特に印象に残っている2人を紹介しました。
ティックさん
彼女が難民キャンプにきたのは、彼女がまだ2歳のときで、人生のほとんどを難民キャンプで過ごしています。子どもの頃はいつも図書館に来て、活動に参加していました。
彼女が結婚したのは13歳、小学校6年生の時でした。彼女の人生は、地域の人びとからの差別や見下しによって変しました。彼女は、自分の人生に意味がないと感じ、家の中で隠れるように過ごしていました。そんな時、親しい友人と家族が心から応援してくれました。彼女は、TYVの活動を紹介してくれた友人と一緒に、活動に参加するようになりました。図書館活動に参加してから、彼女の人生は大きく変わりました。
「図書館の仕事をするようになって、新しいことを学び、様々な経験を積むことができるようになりました。たくさんの人と出会い、私の人生はより意味のあるものになり、恥ずかしいと思わずに何でもできるようになったと感じています。図書館は私にとって、学校のような場所であり、新しい世界であり、光です。図書館活動によって、私は自由になることができました。今、私は未来だけを向いています。」
一度、彼女の家を訪れたとき、図書館から絵本を借りている様子に感動しました。彼女は母親として子どもの成長を意識し、サポートしており、他の母親たちのロールモデルでもあります。
ショーさん
彼の母は図書館員で、彼にとって図書館は第二の家でした。図書館にあるすべての絵本を読んでいました。家には絵を描くものがないので、図書館に来て好きなだけ絵を描くような子どもでした。
絵が描けるようになりたくて、毎日のように図書館に行って絵本の絵を見ながら真似して描いていました。毎日のように絵を描き続け、1年後にはコンテストで賞を獲得しました。彼の絵は、絵本として出版され、キャンプの子どもたちに読まれています。
彼は2010年にアメリカに移住しました。「難民キャンプにいた頃は、図書館が唯一の学びの場でした。アメリカに来て生活は一変しましたが、自分は世界の一部だと感じるようになりました。難民キャンプでは、自分は何にも属していないように感じていました。アメリカに来てからは、カルチャーショックを受け、簡単にはいかない毎日でした。苦労しましたが、アメリカでも自分の夢を追い続け、高校卒業後は、アートを学べる大学に進学しました。今は、学校で子どもたちにアートの楽しさを教える仕事をしています。私のすべては、難民キャンプの図書館から始まりました。」
川畑さんが見てきた難民キャンプ
僕が初めて訪れた頃は「ミャンマー軍を倒し、必ず祖国に戻るんだ」とミャンマー軍への敵対心と祖国愛を強く語る人びとが多かったように思います。その頃、ミャンマー軍との間にはまだ停戦合意がなされず、戦争状態にありました。迷彩服を着た少年たちをよく見かけました。子どもたちの精神的な影響も強かったのでしょう。「将来はカレン軍に入隊してミャンマー軍を倒したい」と意気込む小学生もいたので驚きました。
数年後、キャンプを訪れると迷彩服姿の少年が減っていました。難民の方々に夢を尋ねるとミャンマー軍を追い出し、祖国に戻るという選択よりも、米国にいって暮らしたいと話すケースが多くなっていました。第三国定住プログラムが進んでいたためですね。
それは子どもたちも同じで、先進国へ移住して勉強したいと語るようになりました。私は、昨年ミャンマーを訪れ、難民キャンプから祖国に帰還した小学6年生の少女に会いました。、彼女も「ミャンマーに戻るよりも、外国で勉強をしたかった」と漏らしていました。もしかするとこれが難民たちの本音かもしれません。
皆さまへ
セイラー:BRC事務所と難民キャンプの人びとを代表して、難民キャンプの図書館を支援してくださっているご支援者の皆様に心から感謝を申し上げます。皆様のご支援のおかげで、この20年間、継続して難民キャンプの人びとに図書館サービスを提供することができました。
ミャンマーに変化が起こり、難民問題が解決され、キャンプの人びとが尊厳を持って安全に帰還できるようになると思っていましたが、軍事クーデターによってすべてが消えてしまいました。難民キャンプの人びとの生活は不安の中で続いており、今でも国際的な支援を必要としています。何卒引き続きのご支援をお願いいたします。
最後に、皆様のご支援に感謝するとともに、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
中原:長年にわたるご支援に感謝申し上げます。この20年をどうとらえるべきかを考えてます。図書館活動が長年人びとに受け入れられ、定着したことは嬉しいですが、一方で活動が続いているということは、難民問題が解決しないがために図書館活動が続いているということで、葛藤があります。今もキャンプでの苦しい生活は続いていて、帰還が進んでいません。難民問題はまだ解決しておらず、解決の難しさを感じます。帰還プロセスがクーデターによって止まってしまい、再開の目途もしばらくたたないと考えられます。我々ができることを考えながら、難民の方がいる限り、寄り添って歩んでいきたいと思います。
川畑さん:難民問題はより長期化すると思います。新型コロナウイルスの影響で、世界中で困難な状況にいる人が増加しています。日本から私たちができることは限られていますが、これからも関心を寄せていただき、寄付をしたり、話し合ったりと、次のアクションに繋げていただきたいと思います。
【第2部 READY FOR緊急報告 クーデター下のミャンマーからの避難民を支えたい】
2021年2月に起こったミャンマーでの軍事クーデター以降、タイ側の国境に何が起きているのか、また、シャンティはどのように関わっているのかについて、クーデター発生以降、タイの拠点にて現地の団体とともに活動を行っている芦田職員からお伝えしました。
※政治的に非常に難しい局面が続いており、情報統制も厳しく、状況が把握できていない点も多いため、すべてをお伝えすることが難しいことをご理解いただけますと幸いです。
タイ・ミャンマー国境の現状-今何が起こっているのか
2月1日にミャンマーで軍事クーデターが発生し、多くの方が弾圧の対象になっており、その後、不服従運動(CDM)に参加した人が少数民族武力勢力(EAOs)の支配地域に逃れています。この状況に対し、少数民族武力勢力は国民の保護を表明しており、そこに侵攻してくる国軍との戦闘が激化しています。3月27~28日には多くの避難民が戦闘から逃れ、タイ国内に流入しました。3月30日には、タイ政府によると、一部避難民がミャンマー側に帰還しました。その後、KNLA(KNUの軍事組織)が国軍の基地を襲撃し、占拠しました。これに対して、国軍による激しい空爆が行われ、近くの村人約3,000人が再びタイ側に流入しました。タイ政府は、再びメーサリアンに避難していた避難民2,000人強がミャンマーに帰国したと発表しています。タイ政府は、5月13日にもメーホンソン県に1,800人近い避難民が残っていることを発表しましたが、正式な支援の許可等は出していません。情報が統制されている状況です。KNLAが国軍の基地を襲撃している様子がタイ側からも確認され、銃撃や爆撃の音が聞こえているという情報もSNSで拡散されています。
国境に面しているタイ側の県、チェンライ、チェンマイ、メーホンソン、ターク、カンチャナブリ、ラチャンナブリに、難民が流入したクロシングポイントと呼ばれる場所があります。この中で一番避難民の流入が激しかった場所は、BRC事務所から少し北上したあたりで、非常に多くの避難民が流入しました。計7,000人が流入したと発表されていますが、正確な数を把握することが非常に困難で、機関やNGOによって数字は多少変わってきます。
流入が激しかった理由の一つとして、この周辺で多くの空爆が実施されたことがあります。このあたりの住民がタイに比較的アクセスしやすい状況にあり、タイ側に多くの人々が流入しました。この地域をKNUが実質的に支配しており、国軍の前哨基地も設置されていて、その基地に対する攻撃が相次いでいます。少数民族の武力勢力と国軍の間で激しい戦闘が行われています。周辺の村はKNUの支配地域のためKNUに警護を依頼しており、侵攻してくる国軍を押し返す一進一退の攻防が今も続いています。
タイ政府の対応
難民が今後大規模に発生することに備えて、タイ側で国連機関やシャンティを含めた国際NGO間で調整が進められています。避難民が流入してきた際には、避難民を一時保護(ホールディング)エリアに誘導してスクリーニングが実施されます。ここでは、コロナの検査、本当に避難民かどうか、経済移民でないかが確認されます。重傷者は優先的にタイの病院に搬送されることになっています。おそらく多少県によって対応が異なりますが、現在避難民は非常に限られた時間のみここでの滞在が許可されており、その後はミャンマー側に帰還しています。
保護エリアへの誘導が完了すると、人道支援機関(UN、国際NGO)のアクセスが許可されますが、実質ここに避難民が送られてきておらず、国連や国際NGOが支援できていません。
教育や保護、公衆衛生など様々な分野に分かれて、参画している団体間で調整が進められています。シャンティは教育・保護セクターで調整を進めていて、私はメーホンソン県、ターク県、ランチャナブリ県の調整を進めています。
メーソットからミャンマーのミャワディにつながる友好橋がありますが、コロナ以降越境できないようになっていて、鉄格子でぐるぐる巻きになっています。
人びとの声
クーデターが始まってから4か月以上が経過していますが、今も多くの人びとがジャングルの中で逃げ惑う生活をしています。度重なるタイ側への流入や帰還を繰り返しています。村に逃げ込んだとしても、武装した戦闘ヘリやドローンが旋回しており、ミャンマー側の村は基本的に厳戒態勢を敷いています。サイレンが鳴ればジャングルの奥地や洞窟に逃げ、戦闘機がいなくなれば村の開けた場所に戻ってくるという状況がずっと続いています。国境の行き来で死者が出ているとUNHCRが発表しています。
ミャンマー側の村に避難してきた人は、自分たちの村が焼かれてしまい、蓄えていた食糧がなくなったため、別の村に逃げて来ており、手持ちのお金も尽き、食糧を買うこともできず、他の村の支援がなければ生活ができない困難な状況にあります。特に周辺に住んでいる人びとは農業を営む人が多く、今年の食糧は昨年の備蓄から消費しています。今年は農作業ができない状況が続いているため、来年のための食糧の備蓄も作れません。国連等も、国境地域を中心としたミャンマー全体で食糧危機のレベルが上がっており、中長期的に慢性化する恐れがあると発表しています。
支援ニーズ
弊会と一緒に活動しているカウンターパートから様々な情報共有を受けています。支援ニーズがあるのは、中長期化するジャングルや洞窟での生活で必要な基本的な食糧、子どもたちやお年寄りへの栄養食品、生活必需品、医療物資(ジャングルの生活が長引いているため皮膚疾患が増加している)などです。また、子どもたちの教育が顧みられていない状況が続いています。食糧のニーズが高いですが、子どもたちの教育も重要な課題となっていて、今後どう支援ができるかをパートナー団体と検討していくことが重要だと感じています。
シャンティの活動
①物資配布調整、②調査、③政府・国際機関・NGO間における調整の3本柱です。
物資配布は、国境付近における避難民の支援で、食糧や日用品などの日々多様化するニーズに対応するために、パートナー団体と日々調整を行っています。弊会の物資もすでに村に到着し、これから配布する予定です。
調査については、中長期事業立案のために国境付近で活動しているNGOや地域コミュニティへの聞き取り調査などを中心に行っています。同時に、弊会と一緒に活動していただけるパートナー団体を選定しています。セクター会合(タイ側で国際機関や国際NGOでの調整)での聞き取り調査や文献調査も行っています。
調整に関しても同様で、今後の難民の流入に備えて国レベル、県レベルにおいて政府機関と一緒に調整しています。
皆さまへ
弊会のミャンマー避難民の活動にご興味、ご関心を持っていただきありがとうございます。
この厳しい状況は今後も中長期的に続いていきます。シャンティとしてこの状況にしっかりと向き合っていきますので、温かいご支援のほどよろしくお願いします。
更新情報をウェブやSNSで引き続き発信していきますので、「いいね」やフォローをして拡散していただけると幸いです。
【質疑応答】
Q:他の難民キャンプと比べての特徴はありますか?
A(川畑さん):外に出ることができないという点です。アフリカ、シリアなど様々な難民キャンプを取材してきましたが、大抵のキャンプは外に出ることができ、ほしいものや必要なものを得ることができます。もう一つは、アフリカ、シリア、アフガンの難民キャンプは砂漠地帯にあり、水に困ることがありますが、ミャンマー難民キャンプは山にあり雨が多いため水に困ることがない点です。
Q:タイ側国境地帯の難民キャンプに滞在する人たちは、難民法がないタイにおいて、法律上、どのような状況、立場にあるのでしょうか?
A(中原):タイは難民条約に加入していないため、1984年からタイ側に流入した人びとを難民ではなく「避難者(displaced person)」として扱っており、一時的に避難地域に受け入れている、というのがタイ政府の一貫とした姿勢です。「難民」として認めていないということです。そのため、タイへの定住も認められていません。登録した難民の方に対しては最低限の保護をし、NGOの活動も認めているという状況です。
Q:日本からの絵本は難民キャンプでも理解され、楽しまれていますか?
A(セイラー):子どもたちは日本の絵本をとても楽しんでいます。絵本が図書館に届けれられる前に、訳文シール貼ってくださっているサポーターの方々に感謝します。これらはすべてコミュニティ図書館に配布され、図書館スタッフが子どもたちに紹介して、読み聞かせなどをしています。子どもたちは日本の絵が大好きで、お話や外国の生活を知ることがとても好きです。日本人のスタッフと一緒に翻訳を確認することで、子どもたちが理解しやすいようにしています。
Q:カレン州への避難民に直接届く支援はありますか?日本からどのように協力できますか?
A(芦田):現在、様々なNGOが活動しながら、現地コミュニティを含めてタイ側からミャンマー側への支援を模索している状況です。コミュニティベースで様々なコネクションがあり、安全に配慮して物資等を配布している団体もあります。また、現金給付などをミャンマー国内で行っている団体も多数見られます。
Q:難民キャンプで印象に残っているものは何ですか?
A(川畑さん):タイ政府としては難民キャンプそのものを広げたくないという意向があります。そのため、キャンプ内のスペースが限られていまいます。住居スペースも限られますが、お墓の数は年々増えることになります。私たちが持つお墓のイメージはそれぞれの宗教のお墓は別々ですが、キャンプ内ではいろんな宗教の方のお墓が同じ敷地内にあります。キリスト教徒のお墓の隣に仏教徒のお墓があったり、キリスト教徒のお墓の前で火葬をしたり。あまり見ることのない世界が、難民キャンプの中にはあると感じました。
Q:ミャンマーは今大変な状況になっていますが、現地スタッフはどのような様子ですか?
A(中原):2月1日のクーデターから4か月が経ち、直後に比べると、スタッフやミャンマーの人びとには全体的に日常の様子が見られるようになってきたかなと思います。まだ、国境周辺やCDMに参加する方、軍に対するデモに参加する方も大勢あちらこちらで見られますが、スタッフは安全面に気を付けて出勤とリモートを合わせて仕事をしています。私が日常の会話でクーデターのことを聞き取ることもありますが、割と日常的な時間をスタッフと過ごせるように向き合っています。スタッフも比較的そういう姿勢で取り組んでくれていると思います。
Q:学校卒業後、大学等へ進学を望む場合、進学できていますか?
A(セイラー):キャンプでの最高学歴は高校までで、大学やカレッジは存在しません。コミュニティベースの団体やカレン族のネットワーク、バイブルスクールなどを通して、一部の学生に奨学金などを提供する機会がありますが、ほとんどがオンラインでの遠隔教育です。ほとんどの子どもたちには高等教育を受ける機会がありません。高校卒業後、NGOの研修などを受けて教員や医療従事者になる生徒もいます。
Q:キャンプの中でお金を使うことはできますか?
A(セイラー):タイの通貨を使うことができます。キャンプ内で購入できる基本的な生活用品、医療品、食糧などを買うことができます。コロナ前は許可があればキャンプ周辺の村に出稼ぎができた人もおり、そこでタイの通貨を得ていた人もいましたが、現在はキャンプの制限によってそれができなくなっています。
Q:国境での支援で一番苦労している点はどこですか?
A(芦田):国境での活動で一番気を付けているのはセキュリティです。メーソットを中心に国境沿いで活動していますが、北上する際に難民キャンプを通ることになり、セキュリティチェックポイントが設置されています。タイ政府も非常に敏感になっていて、パスポートチェックがあります。ここでしっかり説明できないと追い返されてしまうので、移動目的をしっかりと説明できるようにし、最新の注意を払って活動しています。
Q:コロナ禍での図書館活動で難しいことはありますか?どんなことに気を付けていますか?
A(中原):タイ保健省からのガイドラインに沿って、予防策をとりながらできる図書館活動サービス提供しています。以前はたくさんの子どもたちを集めてお話の場を作っていましたが、今は少人数に制限して、ソーシャルディスタンスをしっかりととって、図書館員がマスクをつけた上で読み聞かせをするなどして、予防に努めています。予防のために必要な物資を提供し、必ず手洗いと検温をしてから入館してもらうようにしています。キャンプ内で陽性者が出た場合は公共施設を閉館するようタイ政府から指示があるため、キャンプ委員会、図書館委員会でしっかり判断をしていただいています。連携をしながらできる限りの図書館活動の運営を行っています。
【お知らせ】
川畑さんが、3月に新評論より『フォトジャーナリストが撮った世界の現実』を出版されました。
今回お話しされた、長年にわたり難民キャンプに暮らしていたモーゼさんとナウ・ター・イェイさんのストーリーをもう少し詳しくこの本の中で書いています。また、川畑さんが取材した世界中の難民キャンプについても書いていますので、他のキャンプと比較しながらミャンマー難民キャンプを知る機会にもなるかと思います。
この本をシャンティのクラフトエイドのウェブサイトから購入いただくと売上の一部が募金となります。ご興味ある方は、ぜひこちらのウェブサイトからご購入いただければ幸いです。
また、今回は本の売り上げの一部をご寄付という形でご協力頂きました。
※イベントの様子は7月20日からシャンティのYouTubeチャンネルで一般公開されますので、どうぞご覧ください。