本が開く、人生がある。タイでの出会いを胸に、現地の様子を支援者に伝えています_吉田圭助
一般企業で2年半の勤務後、大学院生だった頃から8年間タイで活動していた吉田圭助。当時シャンティのタイ・バンコク事務所だった「シーカー・アジア財団」での勤務を経て、2017年に日本に帰国してからはシャンティの広報・リレーションズ課の一員として働いています。一般企業から大きなキャリアチェンジをし、現在に至るまで、吉田を突き動かしてきたのはスラムの子どもたちに寄り添いたいという思いです。
シャンティ国際ボランティア会
広報・リレーションズ課 支援者リレーションチーム
吉田圭助(よしだ けいすけ)
麻薬の注射器と、子どもたちの笑顔。スラムの光景に受けた衝撃。
吉田がタイ最大のスラム「クロントイ」に初めて足を踏み入れたのは、国際地域学部でコミュニティ開発を学んでいた大学3年生の時。ゼミの先輩の調査に同行してのことでした。クロントイ・スラムは、1930年代後半に始まったクロントイ港の建設や急速な工業化を背景に、干ばつや飢饉にあった地方の農民がバンコクに流れ込み、拡大していったスラムです。 現在は約10万人が暮らしているといわれ、不安定な居住、不衛生な住環境、子どもの教育や就職、麻薬など、未だ多くの問題を抱えています。
吉田「初めてクロントイ・スラムの路地を歩いた時は、驚きの連続でした。ベニヤ板やトタン、港からの廃材を使って建てた小さな家が所せましと密集しており、人がすれ違うことも精一杯な細い路地、軒下の湿地に浮かぶごみや垂れ流しの洗濯の水、皮膚がただれた犬が寝そべっていたり…。その中でも一番衝撃を受けたことは、クロントイ・スラム内を走る、貨物列車の線路際でした。その周辺を案内してもらった時、その線路沿いに麻薬注入後といわれる注射器がゴロゴロ落ちていて。そんなことにはお構いなく、裸足の子どもたちが楽しそうに走り回って遊んでいました。こんなことってあるんだ、と驚きました。私たちは日本で暮らしていて、麻薬なんてそんな身近にあるものじゃない。それなのに、このスラムの純真な笑顔の子どもたちにとっては、注射器が落ちているのは当たり前のことなんだ、と。子どもたちが育つ環境が、ただただ衝撃的で、あの光景は今でも忘れられません」
大学を卒業した吉田は、世界と関わる仕事をしたいという思いで一般企業に就職します。世界中に輸出される日本製品の説明書を、それぞれの言語で制作する会社でした。しかし、営業職だったということもあり、思い描いていたグローバルな仕事とは異なっていました。2年半勤務した吉田が退職を決意したのは、印刷を依頼していた中国の工場での労働環境を耳にしたことがきっかけでした。
吉田「現在は変わっていると思いますが、当時中国の工場では、かなり厳しい労働環境で人々が働いていると聞きました。その時、違和感を覚えたんです。自分は、大学でスラムに触れて、どうしたら貧困や格差をなくすことができるのかを考えてきたのに、厳しい状況にある人たちに仕事を依頼している……そんなことでいいのかな、と。もちろん、企業が雇用機会を創出することは、大事なことです。でも、私がしたいと思っている“世界との関わり方”とは違っていました。そこで、貧困や格差の解決につながる関わり方を模索しようと、大学院に入ることに決めたんです」
スラムのNGOスタッフとして活動。そしてシャンティとの出会い
ドゥアン・プラティープ財団教育里親事業部の当時のスタッフと吉田(前列左)
大学院に入学した吉田は、再びクロントイ・スラムへ。調査のなかで出会ったのが、「ドゥアン・プラティープ財団」というタイのNGO団体です。プラティープ財団は、クロントイ・スラム出身のプラティープ氏が立ち上げたNGOで、スラム内の子どもたちへの教育・奨学金支援、家庭内暴力など困難を逃れた人たちのための寮施設の運営など、スラムの人々が自らスラムの課題に向き合い、活動しているNGOです。スタッフは基本的にタイ人で、日本の支援者が多いこともあり、日本人ボランティアが数名所属しています。
吉田「タイの人たちが自らで運営するNGOという点に非常に興味があって、何度も足を運び話を聞かせてもらっていました。そんな時、プラティープ財団にいた日本人ボランティアの方が帰国することになり、担う人を探しているというお話を伺いました。大学院の調査をする上でも、財団での活動は役に立ちますし、ボランティアスタッフとして関わらせていただくことになったんです」
プラティープ財団では、教育里親事業部に所属し、日本の支援者の方々に、子どもからの御礼の手紙と成績表を送ったり、支援状況を知らせたりといった仕事に従事。財団の仕事にやりがいを感じた吉田は、大学院を中退し、本格的にタイで暮らしていくことを決意します。
そうしてプラティープ財団のボランティアスタッフとして働き始めた吉田ですが、当時からシャンティはよく知った存在でした。というのも、プラティープ財団の事務所と当時シャンティのタイ事務所だったシーカー・アジア財団(2017年にシャンティの事業を引き継ぎ独立)は、約30mの距離にある「ご近所さん」。今度はシーカー・アジア財団で日本人スタッフが退職することになり、吉田に声がかかりました。プラティープ氏からぜひ力になってあげてほしい、とすすめられたこともあり、プラティープ財団での3年間の勤務を経て、シーカー・アジア財団に入職することになったのです。
5年間シーカー・アジア財団に所属した吉田は、家庭の事情により日本への帰国を決め、2017年の11月からシャンティに入職。現在、広報・リレーションズ課支援者リレーションチームにて、支援者に向けて報告や寄付協力の依頼を行ったり、学校や組合などの団体から依頼を受けて講演を行ったり、図書館でワークショップを行ったりと多忙な日々を過ごしています。
吉田「ありがたいことに、全国に支援者のみなさまがいらっしゃるので、国内出張は非常に多いですね。最近は講演の依頼もたくさんいただいています。先日は、愛知の中学校で全校生徒に向けての講演があったり、労働組合の勉強会で講演をしたり。講演に呼んでもらった出張に合わせて、周辺地域の支援者さんにご挨拶に伺っています」
8年間タイで活動していた吉田によって、日本で日本の支援者に向けてアジアの現状を伝えていく仕事は、やりがいを感じるとともに、戸惑いや歯がゆさを覚えることも多くあるといいます。
吉田「目の前にスラムがない状況で“伝える”ということがこんなにも難しいとは思いませんでした。タイにいた頃は、スラムを実際に案内して歩き、音や匂いなどを体感してもらうことで、理解してもらうことができました。リアルではないアジアの子どもたちの状況を、どう伝えたら身近な問題として感じてもらえるのか……今も試行錯誤が続いていますし、永遠に答えが出ないのかもしれません」
シャンティのイベント実施中。現地の子どもたちの様子などたくさんの方に伝えたいと思いながら
「シャンティで、人生が変わった」。背中を押す、スラム出身の少女の言葉。
日々試行錯誤しながらシャンティの活動を伝えている吉田には、忘れられない言葉があります。それは、タイのスラム出身でありながら、現在は外務省に勤務し外交官として活躍するオラタイ・プーブンラープ・グナシーランさんが、タイ・バンコクで行われた奨学金授与式の時、スラムの奨学生たちに語った言葉です。
吉田 「オラタイさんの『スラム出身で、困難な環境で、嫌なことがたくさんあっても、逆境に負けずあきらめないでください。夢を持つこと、自分を信じること、感謝の気持ちを忘れないことが大切です。自分を信じてやりぬくことです。』という子どもたちへの激励の言葉が、胸に響きました。話を聞いていた奨学生の子たちの真剣なまなざしも、涙をためて聞いている保護者の方々の姿も忘れられません。奨学生たちは、自分もオラタイさんのようになれる、と思ったはずです。またオラタイさんは『本が、図書館が、自分を導いてくれた。今の私があるのは、日本の人たちのあたたかい気持ちによって建てられた図書館のおかげです。感謝しています』とも話します。自分の仕事が、子どもたちの未来を開くことにつながっているのだと深く実感できた出来事でした」
シャンティの支援先の子どもたちが置かれている状況やその背景、どんな顔で、図書館で絵本を開いているのか、そういったことを日本のたくさんの人に知ってほしい。もっと身近に自分ごととして捉えてもらえるように、オラタイさんの言葉を胸に、吉田の挑戦は続いていきます。
プロフィール 吉田圭助(よしだ けいすけ)
広報・リレーションズ課 支援者リレーションズチーム
2012年 一般企業から大学院を経て、シーカー・アジア財団入職
2017年 シャンティ入職(現職)
企画・編集:広報・リレーションズ課 鈴木晶子
インタビュー・執筆:高橋明日香
インタビュー実施:2019年