【対談:第五回】戦火の中で本を守った人々
映画監督 / 金高謙二さん × シャンティ広報課 / 鎌倉幸子
2014年8月20日 シャンティ東京事務所2階
そこにあるのは一冊の本だけれど、その背後には連綿と受け継がれてきた無数の人の思いがある。
今回は戦火の中で、自分の身も危うい時に本を守った人々と、それを映画にした監督のお話です。
映画監督 / 金高謙二さん
- 1955年、東京都江戸川区生まれ。73年、国立館山海員学校卒業。外航船ケミカルタンカーの船員となる。75年、イタリアペルージア外国人のための語学大学に留学、目的はローマチネチッタ前の映画学校に入学するつもりだったが、閉鎖中でやむなく断念、帰国。77年、人形劇団ドレミ座入団、TBSの子ども番組や地方の小学校への巡回公演をする。79年、ビデオ制作会社入社。81年、フリーの映画助監督となり、主に近代映画協会で新藤兼人監督に就く。92年、自主制作開始。2012年に「40万冊の図書」、13年に「疎開した40万冊の図書〜2013年バージョン〜」を製作・監督した。
シャンティ広報課 / 鎌倉 幸子
- 1999年シャンティに入職。内戦で多くの図書が焼かれてしまったカンボジアに赴任。カンボジア事務所図書館事業コーディネーターとして絵本や紙芝居の出版にも携わる。2007年に帰国。東京事務所海外事業課カンボジア担当、国内事業課長を経て、2011年より広報課長。東日本大震災後、岩手で行っている移動図書館プロジェクトの立ち上げを行う。
本を守った人の思いを残し、伝えたい
鎌倉:本日は「疎開した40万冊の図書」を製作・監督した金髙謙二監督をお迎えしました。「疎開した40万冊の図書」は太平洋戦争末期に日比谷図書館の本を守るためにと40万冊の図書が疎開しました。シャンティが活動しているカンボジアなどは内戦で本は余計な知識を与えるものとして焼かれてしまった歴史があります。本を残す、本を守る。そんなテーマでお話ができればと思っております。その前に監督、自己紹介をお願いします。
金髙:昭和30年8月1日に、東京の江戸川区小岩で生まれました。船乗りにあこがれて、中学校から館山にある海員学校に通いました。卒業して船乗りになるのですが、ちょうどその年は、翌年がオイルショックで。卒業した年も、海運業界は全然だめになっていて就職がなかなかできなかったんです。なんとか弱小の船会社に就職して、東南アジアやアメリカを回るケミカルタンカーに乗っていました。
鎌倉:最初のキャリアは映画ではなく、船のお仕事だったのですね。
金髙:その後、なぜか、何かしたいと思い始めて、一緒に船会社に入った人間とイタリアに行きました。映画の勉強をしたいと。でも結局色々あって、映画学校には入れなかったんです。日本に戻ってきてから、いろいろツテをたどり26歳の時にこの業界に入りました。新藤兼人監督のもとで助監督になりました。
鎌倉:新藤兼人監督のもとで働くことになったのは何かご縁があったのですか。
金髙:実は、その前にいくつか他のところで助監督をやりました。ただ私の師と仰ぐ人は新藤兼人監督ですね。新藤さんの作品は基本的には劇映画(※1)が多いんですけど、広島のご出身なので原爆のことについてはものすごくいろいろな角度で捉えられていました。第五福竜丸の問題のように、人間の尊厳みたいなものを追求された方でした。新藤さんの『さくら隊散る』という広島で被爆した移動演劇隊の映画の撮影に助監督をしていました。その映画はドキュメンタリードラマで、このような事実を基にした映画を撮るのが自分にはあっているんじゃないかなと思っています。
鎌倉:「疎開した40万冊の図書」拝見しました。この映画を撮るきっかけを教えてください。
金髙:このような事実があったことは、全く知らなかったです。4年ぐらい前だと思うんですけど、たまたま運転していた時、車のラジオから「こういうことがありました」と本の疎開の話が聞こえてきました。あ、聞いた事ないなと。
鎌倉:ラジオで取り上げられていたをたまたま聞いたのが最初なんですね。
金髙:最初はテレビの企画にならないかなと思ってすぐに日比谷図書館に連絡したんですけど、日比谷では分からないといわれて。都立中央図書館に連絡して。そのうち、「私でよければ」という方がいらっしゃったので話を聞きに行きました。
鎌倉:やっと知っていらっしゃる方と連絡取れたのですね。
金髙:話を伺って「あ、これはすごい話だ」と。映像にもなってないし、本にもなってないから。でも、テレビ局に企画を打診したんですけど、あんまり良い顔をされなかった。
鎌倉:「図書館」ネタでは視聴率がとれないからですかね。
金髙:テレビ局からは「その疎開した図書の中に、おたからはあるんですか?」と聞かれました。
鎌倉:なるほど。すごい値段のつく文献はあるのかと。
金髙:僕が狙ってたのはそういうのじゃない。なんで戦争中に大変な思いをして図書を運んだのか、その人たちの熱意とか、受け入れた人たちの思いとか、運ぶ時の苦労がどれだけのものだったのかとかを伝えたかった。だからテレビじゃなくて自分でやることにしました。スポンサー探すのも大変だと思ったので、持ち出しで撮ることにしました。テレビで稼いだ分を映画につぎ込みながら撮影していったので、3年くらいかかっちゃいました。
鎌倉:今回監督が記録に残してもらわなければ私たちも知らないままでした。今年は戦後69年ですよね。その時を語れる人が減っている。監督は、当時中学生とか高校生だった方にもインタビューされていますよね。
金髙:映画には都立一中(現、日比谷高校)の学生で、実際図書を運んだ阿部信彦さんと伊澤久昭さんが出演されています。日比谷高校と高輪商業からそれぞれ25人ぐらいが選ばれたそうです。50人くらいで1カ月間くらいかけて運んだという記録しか残っていません。図書館からも何人もの職員が運んだはずなので、相当数の人で本の疎開をやったんじゃないかと思います。映画の中で、阿倍さんや伊澤さんが「当時はよく分からな金髙:かったけど、大人になってみて自分たちはすごく大変な仕事をしたんだなと思った」とおっしゃっていたのが印象深かったです。
鎌倉:まさに自分たちが「文化を守った」ということに気づかれたのですね。でも、インタビューしたお二人のうちお一人がこの前お亡くなりになったそうで。
金髙:そうですね。伊澤さんがお亡くなりなりました。実際完成した映画も観ていただけなかったのです。
鎌倉:記録という意味でも、証言を残していただいて本当によかった。しかし、いくら高校生で若いとはいえ、戦時中で食べる物も少なかったでしょう。重い本を、どこまで運んだのですか。
金髙:今の東京都あきるの市と埼玉県の志木市に運びました。お宅の蔵をお借りしたそうです。
鎌倉:トラックとかはもちろんなく、大八車とかで運んだんですよね。
金髙:何回かはトラックを使ったみたいですが、エンジンの故障をしてしまったり状態はよくなかったようです。ガソリン車ではなく木炭車で運んだみたいです。あとはリュックか大八車ですね。
鎌倉:リュックとは、まさに人力ですね。
金髙:雪の日は苦労したそうです。大八車2台に分かれて奥多摩までいくんですけど、府中あたりの出張所で一泊して、二日がかりだったと。
鎌倉:そして本を預かる、蔵を提供した方がいらっしゃったのですね。
金髙:蔵を提供した方が「2階に本を上げていたけど、床が抜けるんじゃないかと」心配したそうです。それに「稀少なものを預かってる」と心配し、毎日見回りをしていた、と。
鎌倉:希少な本といえば、図書館で貴重な本を購入して、それも疎開させたのですよね。
金髙:当初、日比谷図書館の蔵書は26,7万冊と言われています。40万冊になったとうのは蔵書家の方から貴重な本を買い上げたからです。蔵書家の方は手放したくないけど戦況が悪化して、燃えてしまうかもしれないからとお譲り下さったようです。
鎌倉:映画では古書鑑定家の方にもご協力いただいたようですね。
金髙:反町茂雄さんという古書の目利きの方と中田館長が毎日東京中を歩き回って本を探しました。
鎌倉:図書館の本だけを考えるのではなく、文化を守ることを使命としたのですね。
鎌倉:爆撃が始まってからでは遅いですものね。状況が分からない状態で、日比谷図書館の中田邦造館長が本を疎開させるというのはすごい決断です。
金髙:中田邦造さんが日比谷図書館に来る前の昭和18年に図書の疎開は始まっていました。ただそれから1年に館長が10人コロコロ代わったのです。その時、図書館にいた秋岡梧郎(※2)さんが「本当に日本を大切にしたいと思っている館長じゃないと、図書の疎開はできないと」と危惧し、見つけたのが石川県立図書館の館長を勤めた後東京帝大の司書官をしていた中田邦造さんでした。
鎌倉:なるほど。中田館長の影には、秋岡梧郎さんのご尽力があったのですね。
金髙:図書を疎開させるのにはお金がかかります。その時に、また秋岡さんが考えたのです。当時、大都会に住む人たちを疎開させる政策があり、国が補助を出していたのです。そのお金を図書の疎開に充てたらどうかと思いつくのです。
鎌倉:それがうまくいったのですね。役場から注意を受けそうだけど。
金髙:補助金の取り決めに「書画、骨董の類いは含まず」と書いてあったみたいですが、「本」とは書いてなかった。笑。
鎌倉:だったら本を運ぶのは大丈夫ということですか!
金髙:そうやってお金を捻出したのです。中田館長も「いける」と思ったはずです。
鎌倉:トップと参謀が、うまく機転を利かせたことで可能になったのか。これは奇跡ですか?
金髙:ある意味奇跡かもしれませんが、関わった人の思いが結集されたのでしょう。
本を焼く者は、やがて人間をも焼くようになる
鎌倉:金髙監督のご著書の第一章出だしは「文化か、人か」となっています。戦争ともなればまず命をどうする、衣食住は、となるかと思います。今回の映画もそうですが「文化、本を守ること」を書かれた、その思いをお聞かせください。
金髙:本も人間が作ってきた文化です。人の命ももちろん、人の手によって作られたものが戦争の愚かな犠牲になっているのです。
鎌倉:私は約8年間シャンティのカンボジア事務所で勤務していました。カンボジアは1975から1979年まで続いたポル・ポト政権下で、本はよけいな知識を与える産物として焼かれてしまいました。多くの作家も処刑されてしまいました。カンボジアの首都・プノンペンにある国立図書館は家畜小屋として使われていたらしく、内戦後、本は使い物にならなかったという話をクメール作家協会の会長であるユー・ボー氏から聞きました。そのユー・ボーさんは、ポル・ポト時代、作家だという身元が割れてしまい、兵隊に指を全部折られてしまって今はもう鉛筆も持てません。それでも生き残った作家ということで口承で物語を伝え、若い作家希望の方が書き移すということで、文芸という文化を残そうとしています。
金髙:そうなのですね。
鎌倉:カンボジア事務所では絵本の出版を行っているのですが、そのユー・ボー氏にもご協力をいただいています。本を焼くというのは人間の尊厳とか、根っこの部分からまずは破壊しようと思ったのか、と監督の本とか映画を見て感じました。
金髙:やっぱり、焚書はしてはいけない。僕は、戦争自体を否定しています。武器を使って人を制圧するなんて、これだけ人間が進化してきてやる行為ではない。だって、武器は武器でしか返せないんです。今のイスラエルとパレスチナをみればわかるとおり、憎悪の応酬でしかないわけです。人間が本当に進化しているのであれば、それを回避しなければいけないのに、まったく後退しちゃってます。焚書というのはそんな中でも見せしめみたいな、卑劣極まりない行為だと思います。
鎌倉:「本を焼く者は、やがて人間をも焼くようになる」とハインリッヒ・ハイネは言っています。本当にその通りだと思います。本という過去の記録を消す事で自分の政権を誇示したいのでしょうか。
金髙:一冊の本というのは書いた人間だけではなく、そのために読んだ膨大な参考文献を書いた人がいるわけです。僕の書いた『疎開した四〇万冊の図書』(幻戯書房)も書き上げるために、何十人、何百人という人が書いたものを参考にしました。そして今回参考文献となった本を書いた人たちも、何十人もの人の文章を参考にしたでしょう。本は人の叡智の蓄積です。大河のように連綿と紡がれていた人間の歴史が、DNAのように一冊に収められている。本を破壊する、焚書するという行為は繋がってきた人類の足跡を断ってしまうのと同じですよね。
鎌倉:歴史を否定してしまうということですね。
金髙:そうですよね
本を守った人たちの話を伝え続ける
鎌倉:監督は『疎開した四十万冊の図書』の新しいバージョンを製作中と伺いました。
金髙:8月中には構成が書きあがります。やっぱり本を守った人たちの話です。今回は神田の古書店街を取り上げます。神田は、世界最大の古書店街ですね。太平洋戦争のとき、周りの町は爆撃で全部燃えてしまったのに、裏神保町と呼ばれている場所にあった古書店街は全く被害を受けていないんです。ただ表神保町は被害にあった。
鎌倉:被害があった、なかったの差はなんだったのでしょう。
金髙:今回は爆撃で燃えた所と燃えなかった所を一つずつ紹介しようと思っています。ちょっとネタバレをすると、燃えてしまった地域については、諸橋轍次の『大漢和辞典』の話をします。日本全国の図書館に必ず一冊(一部というのか13巻ある)はあるんじゃないでしょうか。空襲で燃えてしまったのですが、ゲラ刷りが3部残っていて、それを元に戦後、復刻させた話です。被害にあわなかった神保町の通りですが、あそこは燃やさないようにとマッカーサーに進言があったのではないかという話があります。嘘か真かを調べていますが、そういうリストを米軍は持っていました。だからお城と神社とか、燃えていないですよね。
鎌倉:私の実家の有る青森県弘前市もお城があります。やはり空爆を免れました。
金髙:意図的に残しているんです。ウォーナー・リストというのがあって。その話をやりたいなと思っています。
鎌倉:燃えてしまった辞書の復刻のお話なのですね。辞書は、まさに言葉の泉と言いますか、叡智が凝縮されたものですよね。シャンティも1980年代にカンボジアの辞書の復刻をお手伝いしたことがありました。
金髙:良い話ですね。
鎌倉:今、カンボジアの市場ではその辞書のコピー版(海賊版)が出回っていて(笑)。ただ生活も大変なカンボジアで、復刻させた分厚い辞書を、わざわざコピーして売ろう、広めようと思った人がいるのは驚きですし、ちょっと嬉しかったりもしました。監督の映画の第2弾もめちゃくちゃおもしろくなりそうですよね。
金髙:おもしろいと思いますよ(笑)。ただ、第一弾のようにインタビューする人がいないんですよ。ほとんど亡くなってしまっていて。諸橋轍次は1982年にはお亡くなりになっています。ですので、今度ご家族にお話を伺うのですが、どうなるのかと思っています。
鎌倉:生の声、証言を記録して行くのは大切ですよね。カンボジアでは内戦前にクメール民話集という昔話を集めた本が9巻出されていました。またお坊さんの説話集なども出版されていたのです。民話や説話は、その社会で生きる知恵を授けてくれるものなのですが、内戦で、お年寄りの多くが命を落としてしまいました。そしてカンボジアは4割が子どもの国です。物語を語ってくれる人たちがいなくなってしまったのです。民話や説話を本として残すことで、次世代に伝えられるし、記録として保存されると思い、出版をしています。
金髙:映画を作るためには必ずシナリオを作ります。設計図がないと皆に伝えられないし、俳優さんも演技できない。そのために何かを調べるときは本をみなきゃいけないし。助監督の時、国会図書館、都立中央図書館にはほとんど毎日通って何か調べていました。今だとインターネットで検索できるかもしれませんが、もっと物事を追求して調べようと思ったら本で調べた方がよいと、僕は強く感じています。僕の本も出版社の編集者が「100年残す本にしましょう」と言ってくれました。それだけ本は形として残り、世代を超えて手に渡っていくものなのでしょう。
鎌倉:そうですね。本として残っていたら、過去の人々の思いや記憶を、現在にいる私たちも受け取ることができますよね。そしてその時代を生きる人が、その思いを受け継ぎまた「形」「作品」にしていくことができます。そんな循環を生み出すためにも「本」が重要な役割を担っているのではないでしょうか。本日はお忙しい中、ありがとうございました。
本を開くことは、未来を拓くこと。
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